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いまさら聞けない「南北朝」とは何?

南北朝(なんぼくちょう)って何でしょう? 南北朝時代、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)、足利尊氏(あしかがたかうじ)。

更新日: 2017年06月05日

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hogehogemanさん

よく聞く「南北朝」ってなんですの?

日本における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。

1392年(元中9年/明徳3年)に皇室が合一するまでの時代を指す。これは室町時代の初期に当たる。
この時代の朝廷には、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在する。それぞれ正統性を主張した。

1333年の鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇と足利尊氏が対立。36年、尊氏が京都に光明天皇を擁立したため、後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れた。以後、57年間、朝廷は京都の北朝と吉野の南朝に分かれ、互いに争ったが、92年に南北朝が合一した。戦前は政府によって南朝が正統とされた。

14世紀の半ばから末まで50余年間の南北朝内乱の時代をいう。鎌倉時代と室町時代の中間にあたるが,広義の室町時代に含まれる。通常,1336年(延元1∥建武3)足利尊氏が北朝の光明天皇を擁立し,それについで後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いた時期をその始期とする。また政治体制だけでなく,社会構成の変化を目安とすれば,14世紀初頭ころから徐々に南北朝時代的な状況に入っている。一方,終期は一般に,南北朝合一によって事実上南朝が北朝に吸収され,室町将軍家による全国統一が名目上完成した1392年(元中9∥明徳3)とする。

南朝

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。

後醍醐天皇が吉野に移り南朝を開いた 吉野=南朝

後醍醐天皇

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇にして、南朝の初代天皇(在位:文保2年2月26日(1318年3月29日) - 延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日))。ただし、以下で記述するとおり、歴史的事実としては在位途中に二度の廃位と譲位を経ている。諱は尊治(たかはる)。鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立した。

北朝

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。
南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。

初代 光厳天皇
足利尊氏が京都に光明天皇を擁立した
京都=北朝

光厳天皇

光厳天皇(こうごんてんのう 正和2年7月9日(1313年8月1日) - 正平19年7月7日(1364年8月5日))は、南北朝時代の北朝初代天皇とされている(在位:元弘元年9月20日(1331年10月22日) - 元弘3年5月25日(1333年7月7日))。諱を量仁(かずひと)という。

光明天皇

光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年6月24日(1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日(1336年9月20日)- 正平3年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の北朝第2代天皇である。諱を豊仁(ゆたひと)という。

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