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清水次郎長は、本当はどんな人物だったのか?次郎長28人衆まとめ

清水次郎長は、本当はどんな人物だったのか?次郎長三国志のモデルとなった人物は、実は義に厚い有能なリーダーだった。カリスマ性が高かったことは事実であろう。ここが元祖サーバントリーダーなのかもしれない。

更新日: 2015年07月18日

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清水次郎長

清水 次郎長(しみずの じろちょう、文政3年1月1日(1820年2月14日) - 明治26年(1893年)6月12日)は、幕末・明治の侠客。本名、山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。

浪曲、映画で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。 大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。

■■■次郎長28人衆■■■

清水次郎長を含め、以下の28人となる。

清水次郎長
大政
小政
森の石松
増川の仙右衛門
大瀬の半五郎
法印の大五郎
小松村の七五郎
桶屋の鬼吉
大野の鶴吉
相撲の常吉
関東の綱五郎
寺津の勘三郎
追分の三五郎
国定の金五郎
舞坂の冨五郎
田中の敬次郎
三保の松五郎
四日市の敬太郎
問屋場の大熊
清水の岡吉
鳥羽の熊
辻の勝五郎
伊達の五郎
由比の松五郎
吉良の勘蔵
興津の清之助
吉良の仁吉

大政

清水みなとは鬼よりこわい、大政小政の声がする―とうたわれたように次郎長の子分の中でも大政はナンバーワンである。
 次郎長の後継者として、山本政五郎の名で入籍し養子となっている。

小政

吉川冬吉とは、清水の次郎長の子分の一人であった通称「清水の小政」の本名である。彼は天保13年(西暦1842年)12月浜松宿新町で桶屋を営んでいた吉川由蔵の二男として生まれた。家計を助けるため、鶏卵の行商に歩き、浜松宿で次郎長と出会い、浜松の博徒親分、国領屋亀吉と地元の魚問屋のとりもちで、次郎長一家の身内となった。その後、次郎長と養子縁組して「山本政五郎」と名乗った。

森の石松

森の石松(もりのいしまつ、生年月日不明 - 1860年7月18日(万延元年6月1日))は、清水次郎長の子分として幕末期に活躍したとされる侠客。出身地は三州半原村(後の愛知県新城市富岡)とも遠州森町村(後の静岡県周智郡森町)とも伝えられるが定かでない。浪曲では「福田屋という宿屋の倅」ということになっている。森の石松の「森」とは森町村のことである。半原村説では、半原村で生まれたのち、父親に付いて移り住んだ森町村で育ったという。

法印の大五郎

「法印」と付いているいるように、この男は坊主崩れである。「崩れ」と書いたが
元・坊主というわけではなく、お布施と称してただで金を集めて暮らしたりしていたらしい。経なんて読めもしなかった。

桶屋の鬼吉

これは次郎長の子分の古株だ。初期からの子分だ。
名前の通り、鬼吉は桶屋だ。面白いのは自分で自分の棺桶をつくり、いつ死んでも良いように、喧嘩の時はその棺桶をリュックサックのように背負って行くのである。昔の棺桶はバケツの大きいのみたいな形だった。

吉良の仁吉

吉良の仁吉(二吉とも書く。きらのにきち、本名:太田 仁吉、天保10年(1839年) - 慶応2年4月8日(1866年5月22日))は、清水次郎長の兄弟分として幕末期に活躍した侠客。
三州吉良横須賀(現・愛知県西尾市吉良町)に没落武士の子として生まれた。無口だが腕っ節と相撲が強く、相撲の上での喧嘩で侠客の親分の寺津の間之助[1]に匿われたのがきっかけとなり、18歳から3年間を次郎長の下で過ごした。次郎長と兄弟の盃まで交わす仲となった後、吉良に帰り吉良一家を興した。

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