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知ってた?日本史から忘れ去られた幻の古部族『サンカ』

日本のジプシーと言われる民族、サンカ。戸籍にも名を残さず、山地や河原を転々とし、ささやかな商取引で生計を立ててきた歴史から忘れ去られた人々。

更新日: 2015年08月12日

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日本の古部族『サンカ』の存在を知っていますか?

出典ameblo.jp

サンカ(山窩)の少女。

明治以降明らかにされた時点では、川筋伝いに村から村へと渡り歩き、主に蓑つくり、笊(ザル)つくりなど竹を主原料とする製品を作り、農家で穀物と交換する、といったことで生計を支える、関東以南から九州までをテリトリーとする漂泊集団

漢字では「山窩」などと書く、日本にかつて存在した集団です。

定住することなく仕事を求め村々を移動する。定住ではないため拠点(天幕、急ごしらえの小屋、自然の洞窟、古代の墳遺跡、寺等の軒先など)を回遊し生活しており、人別帳や戸籍に登録されないことも珍しくなかった人々であった

定義としては、先祖代々、戸籍を持たず、山野を移動して定住せず、それでいて里人とのささやかな商取引は行っている集団

一般的な日本人とも交流があった民族と言われています。

彼らの特徴は、ウメガイというアメノムラクモノツルギと同型の双刃(もろば)の山刀をもち、テンジンという古代そのままの自在鉤を使用し、その他もろもろの厳しい掟(ヤエガキまたはハタムラという)に従って生活している等、古来の慣習や掟を今も頑固に守りつづけていることである。

その指し示す範囲は広く、回遊職能民であったり特殊な窃盗団など、時代や立場によって定義や趣旨も大きく変わり、語義を明確にすることは難しい。

「サンカ」とはあくまで彼ら自身の呼び方ではなく、外部の人間がつけた名前(集団名)です。

「ウメガイ」と言われる両刃のナイフを持つサンカの男性。

謎に満ちたサンカの人々の生活

山窩とは、日本の山間部を生活の基盤とし、夏場の川魚漁、冬場の竹細工を主たる生業としながら山野を渡り歩く漂泊民である。その生活実体は十分につかめてはいないが、生産技術や社会関係、信仰といった生活様式が平地民とやや異なり、平地の住民からは異端的に見られていた。

サンカの社会は、彼等独自のもので、アユタチと呼ばれる大親分(おおやぞう)を頂点に、クズシリ、クズコ、ムレコの各親分(やぞう)が、 各地のセブリを取り仕切り、その生活は、彼等が理想とする誇り高き社会を守るために、独自の掟(ハタムラ)によって厳しく規定されていたと言われています。

彼らは農家で新箕(あらみ)を売ったり修理をしたりして、その生活をたてている。従って部屋のある住居はもたず、村はずれの林の中や、川のほとりにセブリ(瀬降)という天幕小屋を設けて、近辺部落の仕事を一通りすますと、天幕をたたんで次の場所に移動するのである。

昭和25年、埼玉県南部で。
風呂桶をもたないサンカは、地面に穴を掘り、ビニールシートを敷いて水を汲み入れ、焼き石を投入、ぬるま湯にして入浴したという。

サンカが謎であるのは、サンカ自身が自らの存在を公にせず隠然と世を忍んできたことによる。

サンカは徹底的な秘密集団組織として生きてきた。外部の者にはけっして自分たちのことを話さず、特殊な隠語を用いて話し、他の仲間への連絡には、特別の符合で書かれたアブリ出しを地面に埋めるなどして行う。その結束は固く、独自の行政・裁判法をもち、一般の倭人とは異なる習慣、信仰、伝承を維持し、しっかりとした相互扶助システムをもって全体の生活を安定させている。

一般の家系図や由来書にあたるものを持たなかった。仮にあったとしても門外不出であり、あるいは口伝によったものと思われる。これによりサンカ研究が意図的故意に為されにくい状況が生み出された。

日本には太古、知られざる文明があり、その文明を断片的に受け継いだのが縄文?出雲族?の人達で、そして、その文明を目指して幾つかの民族が渡来し、縄文人と平和的 に融合したのがサンカを始めとした山の民のルーツではないか

サンカのルーツに関するいくつかの仮説

サンカの家族とされる写真。

サンカのルーツを廻って1・古代難民説、2・中世難民説、3・近世難民説諸説がある。

サンカと呼ばれる人々がいつ頃現れたかについては、諸説あり今でも謎となっています。

仮説によると、江戸期の度重なる飢饉において兆散した農民たちが、川べりを移動しながら生活していたのが、近代において「サンカ」と呼称されるようになったと言われている。

発祥は江戸時代とする説。

「サンカ」の起源は「参河」であり、これは大和朝廷への服従を拒み持統天皇に放逐された「参河」地方の住民達の末裔

その起源や大和朝廷にまで遡るという説も。

動乱の続いた室町時代(南北朝、戦国時代)の遊芸民、職能集団を源とする中世難民説。起源を比較的古くまで求めることが可能な言葉である「三家」、「三界」、「坂の者」などを根拠とする。

江戸時代末期の飢饉から明治維新の混乱までの間に山間部に避難した人びとが多数を占めるであろうという考察。サンカに関する記述が、近世末になって、天保の大飢饉が最も苛酷であった中国地方で登場することから、沖浦和光が主張している。

少なくとも昭和20年頃までは存在していた

彼ら山に篭った群れの純粋な山窩(サンカ・サンガ)の生活にも、文明や道具の一部は取り入れられたが、生活様式だけは頑なに守って独自の生活圏を山岳地帯につくり、言わば祭らわぬ人々(統治されざる人々)として存在し、それが明治維新の少し後まで無人別集団として存在して居た

サンカは明治期には全国で約20万人、昭和に入っても終戦直後に約1万人ほどいたと推定されているが、実際にはサンカの人口が正確に調べられたことはなく、以上の数値は推計に過ぎない。

昭和20年代までは川原などでよく見かけたそうだ。
人々の生活が豊かになるに従って、姿を見かけなくなったようだ。

広島に伝わるサンカの昔話

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