1. まとめトップ

著者・鶴見済が語った『完全自殺マニュアル』の背景、社会、そして生と死

93年に発売されベストセラーになった『完全自殺マニュアル』が出版された背景、生と死、また社会の変化について、著者が連続ツイートで詳しく説明しています。

更新日: 2016年11月06日

11 お気に入り 30292 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

backbookさん

念のために言っておくが、『完全自殺マニュアル』は発売された93年と翌94年にまたがってベストセラーだったが、この2年間に日本の自殺者数は連続して「減少」した。 www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku…

『完全自殺マニュアル』については、大バッシング⇒有害指定という誤解があるかもしれないが、東京都が不健全だと騒ぎ出したのは、話題も収まりきった99年。発売から6年後というバカバカしさを考えてほしい。当時行政が勝手に始めた有害情報規制運動の一環でしかなかった(結局東京は指定せず)。

こんなものを信じる人もいないだろうが、「発売当時『完全自殺マニュアル』の影響で自殺する人が多数現れた」などと、ありもしないことを吹聴している人間がいる。「この本の影響による自殺」などと見なされたケースは、これまでに一件もない。こういうものを見かけたら「違反報告」してほしい。

『完全自殺マニュアル』について、当時の状況を知っているのか怪しい人間が、「大バッシングを受けた本」などと言っているが、一部のマスコミがこぞって批判したのはワイドショーに取り上げられた2回ほどの機会のこと。終始肯定的な論者のほうが多かったので、特に大バッシングされていた覚えはない。

ついでに言えば、『完全自殺マニュアル』はそれまでに根強くあった、「強く/頑張って生きろ」だの「自殺する人は心の弱い人」だのといった風潮に対する、そう言われる側からの「ふざけるな」という反撃でもあった。そのニュアンスは、その風潮が蹴散らされた今となっては、なかなか伝えづらい。

自分の20代くらいまで、死にたい気持ち(特に未成年の)は、未熟、心が弱い、命の大切さがわかっていない、等々と片付けられてきた。精神医学界や教育界の方針だったのだろう。精神科に通っていた自分も未成年の自殺者までもが、そんな言葉を食らっていた。しかしそうではない。(続く)

死にたくなることなど当たり前にあるわけで、何かが「劣っている」せいではない。『完全自殺マニュアル』にはそういう怒りが満ちている。「元気が出た」といった感想は、普通は何だかわからないだろうが、自分にはわかる気がした。「反『強く生きろ』主義」は「死」ではなく、「ウダウダした生」だ。

98年に自殺者は経済苦のせいで激増し、2000年代半ば頃から、自殺の原因を社会にも求めるようになった。個人の心の弱さのせいにするのをやめたのは画期的な変化だ。なので今の自殺への接し方はいい。「死にたい気持ち」を肯定するのは恐いかもしれないが、頭ごなしに否定していいものではない。

再び。『完全自殺マニュアル』では、いい学校、いい会社、いい役職へと進むこと、どんなに辛くても途中で降りないことが至上命題だった、それまでの日本社会の息苦しさも批判した。「頑張れ/強く生きろ」主義はそれと一体のもので、そこから降りることを言った。そういう状況全体に反抗したつもり。

切り捨て新自由主義の時代になって「強く生きろ」主義は弱まったが、正社員の世界は相変わらず。日本では自殺と失業率は高い相関関係にあって、つまり会社をクビになると生きられない。同時にカローシの国でもあり、会社で頑張っても死ぬ思いをする。降りて生きられればいいという思いは続いている。

日本独特の「頑張れ主義」は部活、受験勉強、就職活動、会社生活等々に貫かれている。80年代あたりまでは本当にひどかったが、不登校がアリになるなど、弱まった気はする。それでもこの部活と過労死の有様を見ると、まだまだ尋常ではない。

自分がかつて訴えていた生きづらさ問題とは、戦争、飢餓、差別といった大問題にやられていないのになぜか死にたくなるような問題。頑張れ主義の抑圧、不安や鬱、無気力、コミュニケーション能力不足等々。こういう問題でも人は死にたくなるので、大問題群に比べて取るに足らないとされるのは嫌だった。

2000年代に入ると、貧困などの「新聞に載るような社会問題」と「生きづらさ問題」が以前にも増して重なるようになり、自分も社会批判をするようになった。が、社会のせいではない由々しい生きづらさ問題はもちろんあるので、軽視しないように心がけている。不安神経症は社会変革では解決しない。

「生き苦しい世の中を生きやすくしたい」と言っている本(『完全自殺マニュアル』)が売れて、自殺者が減った。そういう事実を前にしても、まだ「こんな本を出しやがった奴らは」などということになるなら、それは単なる、

「いざとなったら死んでしまってもいいのだから」と思った時に、自分を締め上げていた力から解放されて、フワッと楽になる感覚がある。「生きろ」という大声でも、もちろん「自殺しよう」でもない何か。絶望の底ではそれが効くことを体験として知っている。『自殺マニュアル』とはそんなもの。

サルトルの小説『壁』の最後に出てくる笑い、太宰治『ヴィヨンの妻』の「文明の果ての大笑い」、真木悠介『気流の鳴る音』に書かれた「空即是色」。深く沈みすぎたがために水底に足が着いて、かえって浮上できた、というような。そういう感覚は大事。

サルトルの『壁』は、スペイン内乱でファシズム側に捕らえられて、やがて殺されるという極限状態に置かれた人間がどうなるかという小説。短編集『水いらず』に入っていて読みやすいのでお勧め。生きる勇気が湧く。最後の10ページほどは何度読んだか。 shinchosha.co.jp/book/212001/

カミュの『シーシュポスの神話』は、「真に重大な哲学の唯一の問題は自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かだ」で始まる評論集。いつか必ず死ぬ我々が生きる意味はどこにあるかについて。拾い読みでも元気出る。大変な知的偉業。傍線だらけ。 shinchosha.co.jp/book/211402/

真木悠介『気流の鳴る音』所収の短文「色即是空と空即是色」は絶対必読。死刑判決を受けた直後の囚人の目には、見慣れた自然が鮮烈に美しく見えるという話。一切の価値が空しくなった時にこそ、浮かび上がる価値がある。が、誰でもいずれは死ぬ運命にあるのだから、この死刑囚の目を持つことはできる。

死刑判決後の囚人は、死ぬべきことを知ったがゆえに、今ここに目が向き、その美しさを発見する。我々がいずれ死ぬという認識の透徹が、今のこの刹那をいとおしくさせる。それが空即是色の意味で、ニヒリズムを超克する唯一の道だと真木(見田宗介)は言う。突き詰めた末に反転させる。大変な思想だ。

見田宗介(=真木悠介)の「空即是色」は『壁』や『シーシュポスの神話』の影響を受けているに違いない。そして自分はそれらの影響を受けている。

また昔語りだが、戦後から90年代あたりにかけて若者(文化)が目指したのは、体制による抑圧に抗って自由になることだった。倫理的な規制との戦いもこれに含まれていて、モンティパイソンがやったことなど、これ抜きには理解も出来ない。しかしそれ以降、敵は少し変わり、この戦いは半分終わった。

死について四六時中考えている必要はないが(病んでしまう)、時々眺めのいいところに行った時にでも思い出すと、かえって気分がいい。

自由はある面ではまだまだ足りないが、インターネット空間や不登校・失業生活など、自由がありすぎるという問題も出て来て、自由を求める反抗は弱まってきた。新自由主義のせいということだけでなく。なので自分も、抑圧からの自由を求める以前のようなやり方は取ってない。

『完全自殺マニュアル』は、そういう当時の状況に対して、これまでに書いたような趣旨の宣言文を載せてぶつけた、ひとまとまりのコンセプト作品みたいなものだった。なので、今は違うやり方、言い方で行きたいし、自殺の方法だけが切り取られてネットで拡散されるようなことにも懐疑的。

ヒトも含めて、生まれた生き物はすべて死んできたが、死後はどこに行ったのか? 死体は有機物、無機物に分解され、地球上の「そのあたり」に散らばる。それを他の動物、植物が取り込む。我々は物質でできているが、その物質は木の葉や水に姿をかえつつ、「そのあたり」をぐるぐると回っている。

あの世などない。ヒトも含め、これまでにこのあたりで死んだ生き物は姿を変えつつ、このあたりにいる。自分もその一部。そう思ってあたりを見回した時、今生きている場所に愛着が湧いた。死とはそんな感じのことと『脱資本主義宣言』の最後の方に書いたが、それ考えると落ち着く。

1