1. まとめトップ

日本人が去った後の、台湾の歴史

台湾の歴史に関する続編まとめ。日本統治以後の政治的変革と経済的成功に光を当てる。ただし、直近の細かい政治動向については触れず、民主化に至るまでの大きな流れに着目した。台湾人にとっても、その歴史は何を得るためだったのか、迷いの出る経過だったのかもしれない

更新日: 2017年01月09日

12 お気に入り 68451 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

▼台湾の歴史にいく前に、押さえておきたい二点。日本人は、米中台日の四者関係を、また「親日」の背景も正しく理解しよう

米中大国の間に、日本と台湾がいる。アメリカとしては、自分の言うことを聞く日本と台湾が、それなりに中国と対峙してくれればいいと考えている。しかし、四者の考えと立場は各自それぞれだ。2コマ目(以降、リンク先参照)は日本。大国から見れば、日本も台湾も「犬」なのに、日本からすればやや異なるらしい。3コマ目は台湾。台湾はとにかく「最前線」にいるため、中国に配慮した立場になるのは当然だろう。4コマ目は中国。うむ、笑うしかない。いずれにしても、私たちは「狭い視野」から飛び出して、それぞれの国・地域の歴史を学び、広い視点から理想的な目標を目指すべきだろう。偏狭なナショナリズムで解決できることは何もない

1949年、共産党との戦いに敗れた国民党は、台湾に「中華民国政府」を移す。本省人側は1947年に蜂起したが、秘密警察の拷問やテロで約2万人が犠牲となった。この時から87年まで、台湾では戒厳令が敷かれ、民選総統の誕生も96年まで待たねばならなかった。日本統治時代は日本語が強要され、国民党は北京語を強要した。民主化運動側は、民進党として政権を奪取し、閩南語や客家語の放送を開始、また、国民党政治に対抗するためのひとつとして、日本統治時代のことも見直している。しかも、隣国中共に対する警戒感も強く、日本を持ち出すことで、一定の距離を置く狙いがある。親日とは、日本大好きという単純なものではないのだ

▼(冒頭まとめからの続き)ついに、台湾は祖国復帰を果たします。しかし「光復」という祝福は長く続きませんでした。

【新ゴーマニズム宣言SPECIAL「台湾論」】
http://yoshinori-kobayashi.com/works/555/

【以下、文章はまとめ編者】
蒋介石は、1943年11月のカイロ宣言において明示されたという「満州、台湾及び澎湖島」の中華民国返還の合意に基づき、陳儀を台湾省行政長官に任命。日本軍の降伏接収を命じた。連合国最高司令官マッカーサも、日本政府にこれを命じている。日本人の官吏はボールペン一本まで目録に掲載し、引き渡したという。陳儀は10月25日に台湾の国籍回復を果たした。しかし、この陳儀という人物は、まもなく台湾人から蔑まされることになる

▼ちょっとコマーシャル、日本統治時代を振り返るならこちら。

▼では、何が問題だったのか、日本統治その後という視点で見ていきましょう

【新ゴーマニズム宣言SPECIAL「台湾論」】
http://yoshinori-kobayashi.com/works/555/

【以下、まとめ編者】
過酷だが、規律のあったとされる日本人官吏や警察官に代わり、無規律の兵士と警察官が勝手な振る舞いを始め、社会秩序は一気に悪化した。この「犬と豚の対比」は見事なまでに、民衆の怒りを表している。キャンキャンうるさい犬も厄介だったが、自己利益だけをむさぼる豚ども(大陸の人間=外省人)はもっと厄介だ、という皮肉である

知らない人たちが突然、自分たちの生活空間にやってきた時、不愉快や苛立ち、各種不安が脳裏をよぎるだろう。無理からぬことだ。良い悪いはともかく、日本の統治が50年続き、その習慣や考え方から抜け出せないまま、「外省人」が次々とやってきて、あらたな支配を始める。特に滑稽だったのは、中国大陸からやってきたボロボロの服をまとまった軍人たちが、それなりに正装していた日本の軍人たちから台湾を接収するのだから、民衆の目には、誰が負けて誰が勝ったのかさえ、理解できないような状況だったのかもしれない

多くの台湾人の反対を押し切って、陳儀(行政長官)は、1946年8月以降は新聞や雑誌から日本語を排除した。日本語は国策に有害という理由だった

日本の敗戦後、連合軍の協定に基づいて、台湾は国民政府に接収された。1945年10月24日には新しい行政長官・陳儀が台北に降り立った。敗戦当時49万人いた日本人はあらかた台湾を去り、その産業施設は次々と国営化・公営化されていった。台湾人に平等待遇を約束していた国民政府は、北京語を必須としたため、事実上、台湾人は統治機構から排除された。また、まもなく始まる国共内戦により、生産減に陥っていた台湾米が政府により買い叩かれて大陸に送られた。そのため、台湾人の生活は著しく困窮した

台湾人には複雑な感情が混じっているという。日本の植民地統治の時間が中途半端だったからだ。当時の台湾人には、中国人という民族意識は失われていなかった。しかし、国家への帰属意識で言えば、それは日本だった。そんな中、終戦を迎え、中華民国が台湾を接収したとき、大きな混乱を起きず、むしろ民衆は路上に立って歓迎していた。しかし、まもなく国民党軍の実態が露呈する。腐敗、汚職、そしてあからさまに日本敵視からくる、「奴隷化教育を受けた」台湾エリートと称し、過激な政策へと舵を切った。北京語教育そのものは問題ないのだが、それが台湾人排除の論理と結びついていたのである

陳儀は経済的にも徹底的な統制政策をとる。台湾当局は、煙草・酒・樟脳・火柴及び度量衡を専売品と定め、塩・砂糖・石灰等を半専売の統制下に置き、専売局にこれを管理させた。しかし、汚職で物資が高騰し、民衆の生活に大きな影響を与える。特に米価は深刻で、ついに専売局前に抗議の民衆が殺到する事態となった(写真)。きっかけは、専売品であるはずの煙草を密売していた娼婦と、官憲の小競り合いだった。官憲の暴力が民衆の怒りに火をつけた。そもそも事件当時の社会雰囲気を、ある記者はこう書いている:「いつでも騒乱や暴動が起こりうる」

▼戦後の台湾で起こった、最大かつ凄惨な事件は今なお人々の心に傷なって残っています

【以下、文章は上掲書】
台湾人と、大陸からやってきた軍人や警官との間の摩擦はついに頂点に達する。当日、市民4,000人以上が集まって、抗議行動を起こした。3月に入ると、国民党軍があらたに台湾上陸、台北・台中、そして高雄に至るまで進軍し、2万人以上が犠牲になったとされる。そこでは処刑された人間も多く、たとえば政府寄りの新聞社の社長をしていた阮朝日氏でさえ、反乱の首謀者として処刑されていた。これは長女・阮美姝が事件後40年以上、父親を探し続けた結果、明らかにされた真実だった(1991年)ことから、台湾で話題になり、阮朝日の記念館も作られることになった

【Wikipediaより】日本統治時代の終わりから、中華民国が台北に遷都するまでの台湾社会が描かれている。公開当時は台湾の戒厳令解除(1987年)から僅か2年後であり、台湾内で二二八事件を振り返って、公に語られることも多くはなかった。舞台となった九份は、この作品の成功によって台湾でも屈指の観光名所となった

【新ゴーマニズム宣言SPECIAL「台湾論」】
http://yoshinori-kobayashi.com/works/555/

【以下、文章はまとめ編者】
二二八事件は、事件そのものよりも、その後の台湾統治に大きな影響を与えた。特に、事件後も続く弾圧のもとで、政治教育も徹底され、台湾エリート層の対応は大きく分かれた。また、そのエリート層が弾圧の標的になったと指摘する声もある。なぜなら、日本の植民地統治下で「同化」に適応してしまった層と位置づけられたからである

台北の「二二八紀念館」は、台湾を知る上で欠かせない10大スポットのひとつに入る。ただし、ここが開館となったのは事件から50年経った1997年。つまり、それだけ長い間、国民党政府にとっては直視できなかった問題だった。その他スポット(主に台北市)は以下の通り:
1)故宮博物院
2)中正記念堂
3)総統府
4)忠烈祠
5)歴史博物館(台中・ 南投県)
6)九族文化村
7)煤鉱博物館(新北市)
8)国父紀念館
9)二二八紀念館
10)烏山頭水庫(台南市)

【まとめ編者】
この皮肉たっぷりのイラストは、医者に扮した政府が、それなりの経済的な豊かさを国民(患者)に与えつつ、大嘘をついて、彼らに死を与えていくというものだ。嘘とはもちろん、二二八事件などの歴史認識のことを指す。何も知らない患者は、「ありがとう」と答えて、医者が打ってくれる注射によって命を落としていくという。一度ついた嘘を覆すわけにはいかない。そんなことがいまだに続いている。どの国にも「影」の歴史はあるものだと、あらためて感じさせられる

1990年代中ごろの国民党が、公式に二二八事件の存在を認めて(李登輝が中華民国総統として謝罪したのは1995年だった)紀念館を建てた。2011年、リニューアルした台北二二八紀念館では、「国民党寄りの展示、解説」との批判が起こり、国民党の行動を「治安維持のための政府権力の行使」と正当化したと手厳しい。事件は戒厳令、白色テロの下で30数年間タブーとされてきた。被害者の家族も真相を究明する手立てが奪われてきた。1987年の戒厳解除、1991年の憲法臨時条款の解除以後、徐々にタブーが壊れ、今日に至る。また、馬総統は、事件の再調査を行うよう中央研究院に指令した

当時の国民党政権は二二八事件が共産党の扇動による出来事だと見なした。そのために、事件関係者の逮捕、虐殺がいっそう激しく進められた。また、(当時では)台湾人がすでに日本帝国に奴隷化されていたことも二二八事件の勃発原因になったとも報告された

▼いよいよ、外省人たちが大量に渡台してきました

国民党政府は多くの人々を大陸から台湾に渡らせているが、特に、警察官・公務員・教員は、その後の台湾統治に重要な職業となった。国民党が接収した台湾の企業や財産は、その大半を「国有」の名のもとで手中に入れた。1965年になっても、アメリカの援助などで国有企業を抱え続け、その規模は民間企業の2.5倍にも達していた。ちなみに、台湾・国民党政権は当初、アメリカに見放されていたとも言われるが、朝鮮戦争の勃発により、アメリカは国民党政府の側に立ち、中共と対立する道を選ぶ

日本軍が消え失せたと思ったら、国民党と共産党が激しく争いだした。当時の国民は戸惑ったに違いない。一方、彼らを受け入れる台湾でも大変だった。終戦を迎えたのに、生活がますます苦しくなっていく状況にあって、突然大陸から次々と人の波が押し寄せてくる。台湾の統治機構も迷ったに違いない。どこまでの人々を受け入れ、どこからを追い返すか。いずれにしてもこの時代は、先の見えない大混乱の状況だった

国共内戦では、遼瀋・淮海・平津のいわゆる「三大戦役」にて100万人を越える兵力を失ったという。1949年、ついに北京が陥落すると、蒋介石は「下野」を宣言。台湾撤退の準備を本格化させた。そうこうしているうちに、南京や上海も陥落。福州も共産党軍の手に落ちる。国民党はその間、広州・重慶・成都と逃げ回っていたが、12月、蒋介石は「大陸反攻」を唱えつつ、台湾移転を決定。ただし、このときの決断(臨時首都としての台北)が、統治体制の台湾土着化を著しく遅らせることになる

1949年12月、蒋介石の率いる国民政府がなだれをうって台湾に逃れた。役人、軍隊、そして難民まで含めると150万人を越える人々が、600万人の住む台湾に殺到した。台湾省主席に任命されていた陳誠は、1949年5月より、すでに台湾全土に戒厳令を敷いていた。そして新しい法律を布告し、政府を転覆する、暴動を起こす、中華民国を外国に売りわたそうとした者などは死刑とした。こうして、1987年の戒厳令解除までに、2900件あまりの政治事件が発生し、14万人以上の人たちが連行され、4000人が処刑された

▼戦後台湾、いや国民党政権を救ったのは、朝鮮戦争でした

1950年7月末、マッカーサが台北に飛び、蒋介石と協議。1951年には「相互防衛協定」となって結実した。アメリカの国民党政権への軍事援助はその後1965年まで続いた。この頃、中華人民共和国はソ連への傾倒を深めていた。中国内戦がそのまま東西冷戦の構造に置き換わっていったのである

1 2 3