1. まとめトップ

【戦国】マイナーだけどスゴイ!地域では著名な戦国武将まとめ9 強弓使い編

有名じゃないけど逸話の残る戦国武将をもっと知りたい!地域では皆が知っているのになんで有名にならない?そんな戦国武将をまとめてみました。第九弾。今回は強弓の逸話が残る方達です。

更新日: 2018年10月14日

8 お気に入り 67236 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

sakukenhiroさん

2016/12/11 内藤家長さんのところに、四戰紀聞 「参州長篠戰記」より長篠の戦いの際の記載を追記しました。

2016/12/25 大島光義さんのところの最後に「武家事紀」の大島光義さんの項を、全文私訳して追記しておきました。

2017/01/22 鈴木大学助さんのところに小田原籠城戦における清水太郎左衛門との共闘部分を追記しておきました(別リンク)。

2017/01/23 鈴木大学助さんのところに小田原籠城戦におけるその最期と旗指物のお話を追記しておきました(別リンク)。

2017/07/06 横井神助さんのところに三浦城主になった下りと鳴弦の儀を追記しておきました(別リンク)

2017/08/14 中原善左衛門さんのところに追記を行いました。逸話は近日中に別リンクで追加いたします。

2017/08/15 中原善左衛門さんのところに上記逸話を追記しました(別リンク)

2017/08/18 中原善左衛門さんのところに「高田郡誌」の古戦場の覧の一文を追記しました。

2018/02/24 鈴木大学助さんのところに「小田原衆所領役帳」に記載の所領を追記しました。

先ず、弓と言えば…日本人ならば誰もが思いつくのが、この二人の「人外」w

「屋島の戦い」で扇を射抜いた那須与一さん。その直後にこれを面白がって長刀をぐるぐる回して舞っていた平家方の伊賀十郎兵衛家員も、義経から伊勢三郎経由で「あれも射ろ」と言われ、家員が楯の後ろに隠れて躱そうとしたにも関わらず一発で首を射抜いて射殺している。

で…船を弓で沈めてしまう怪物さんw

個人的には…この人は日本の呂布扱いでいいと思いますw

「中 里 介 山 日本武術神妙記 ・・剣豪武術家逸話集・・」さんのHPより引用。續日本武術神妙記の記載における「精兵」

精  兵

 よく射るものを精兵〔せいびやう〕と昔から云ひ習はしてゐた。精兵の資格としては、まづ三間(6尺5寸の京間で計算すると約10m)中を置いて畳を一畳横に立てゝ、それから又一間(京間だと3.3m)づゝ間を置いて二畳立てゝそれを射させて、かけず、たまらず射拔くだけのものを稱して普通精兵の資格としたものであるといふ。

これによると、よく軍記で出てくる精兵(せいびやう)というやつは必然的に「強弓使い」という事になりますね。となると「強弓精兵」は割り増しって事になるのか?「精兵」が基準のある一種の資格じみたものだとは思わなかったwww

火縄銃が普及する以前まで、日本の歴史においてメインの飛び道具として磨き抜かれた和弓の仕組み。

洋弓が全長160cm前後、弓の中心を把持しハンドル、リム等にパーツが別れている構造なのに対し、和弓は全長が標準で七尺三寸(約221cm)、下から3分の1、弓の中心から見て下部寄りを把持し(上長下短)下から上まで全長に渡ってひと繋がりの構造となっており、全長だけ見れば和弓は世界最大の弓である。
上長下短の構造は一見バランスが悪いように見えるが、握りの位置が丁度弓の震動の節にあたり、持ち手に来る振動が少ないという利点がある。また高度な技術ではあるが、上下の長さの差から来る弓の上下の反発力の違いを利用し、矢の飛び方に変化(飛距離を出す、鋭く飛ばす等)を付けることができる。
また一説では、弦を張った状態の弓を矢を番える位置で上下に分けると長さの比率が黄金比になると言われており、そのことも美しさの所以とされている。

弓は原則として左手に持ち、矢は弓の右側に番え(洋弓は左側)、右手に弽(ゆがけ)を挿して(はめて)引く。取り掛けは右手親指根辺りで弦を保持し、筈を人差し指根で抱え込むように保持する蒙古式を取る(洋弓は人差し指〜薬指で弦を保持する地中海式)。上から大きく引き下ろし、最終的に右手が右肩辺り、弦が耳の後ろに来るまで大きく引く。
なお弓本体の右側に矢をつがえて放つと言う構造上、そのまま矢を放てば矢は弓本体に阻まれ、狙いは右に逸れてしまう。このため発射時に左手の中で弓を反時計回りに素早く回転させることでそれを防ぐ。これを「弓返り」(ゆがえり)と言う。また弓返りを行うことで弦が矢に接触している時間が長くなり、矢はより加速されるという。

和弓の威力

和弓は世界的に見ても大型の弓で、矢が長くて重いぶん射程などの面では不利になるが、武器としての威力は相当ある。「ナショナルジオグラフィックチャンネル」の番組「武士道と弓矢」の中で、ドロ-・ウェイト23kgの和弓と、同23kgのイギリスの長弓(ロングボウ)の威力を科学的に比較する実験を行い、高速度カメラで撮影して検証したところ、矢の速度は両者とも秒速34mで全く同じだが、和弓のほうが矢が長くて重いこと、和弓独特の射法のおかげで和弓から放たれた矢は安定して直進すること(イギリスの長弓から発射された矢は、飛行中、わずかに斜めに曲がる)などの理由により、威力は和弓が勝る、という結果になった。具体的には、人体の密度を再現した銃弾のテスト用のジェルのブロックを的として、矢が人間の体にどの深さまで刺さるか、矢の貫通力を比較したところ、イギリスの長弓の矢が25cmの深さまで刺さったのに対して、和弓の矢は30cm刺さった。

銃が携行武器として普及した現在においては軽視されがちですが、以外に弓の殺傷能力は高いのです。(第二次大戦でエゲレスの弓ロングボウを使い、敵のドイツ兵殺しまくったジャック・チャーチルさんみたいな人もいますがw)

そんな中でも和弓はけっこうな威力w放つ矢の種類にもよりますが、直射ではなく、弓巧者が放物線を描くように放つ曲射であればその射程は400~600mもあったようです。(単純に現代のアサルトライフルの「有効射程」よりも上。)

日本で有名なのは上の那須与一や源為朝ですが、まとめ5に挙げた「10人張」(正確には11人張?)というアホ威力の鉄弓を使った逸話がある武田光和等戦国時代にもかなりの数の名手がいます。今回はその中でも弓での狙撃の逸話が残るマイナーな武将を挙げていきます。

武将はここから↓とりあえず後北条氏旗下から三人。

横井神助 横井越前守 横江とも 「八州無双の強弓」 (後北条氏一人目)

尾張の横井氏と同族で北条時満の一族とあり、「尾張名所図会 附録 巻3」の記載によると、武者修行で相模に行き、北条早雲、氏綱に仕えたとされる。これを元にするならば北条早雲(伊勢宗瑞)は縁戚な上に、その正室は横井掃部助の娘、またその子である北条氏綱の正室の養珠院も横井氏とされる説がある事を考えると…この縁故関係で尾張から相模に移り、早雲に仕えたと考えるが自然なのではないか?とも取れる(「鎌倉九代後記」には横井さんが小田原に来て北條に属したのは享禄元年(1528年)とあります)。

後北条氏旗下となった伊豆衆には、北条得宗家の一族とされる桑原氏(横井(横江)氏の一族?)や田中氏がおり、南條氏等の北条得宗家の家臣も多い(氏綱が北条を名乗ったのはこの血の流れが理由かも。)また、扱いも北条氏の一門衆であり、後北条家二十将衆にも数えられ氏康の代は黄備えを任されており、三浦義同親子を倒した後の三浦城代に配置され、三浦水軍の残党を束ねる役割も任されている。

2017/07/15追記:鎌倉九代後記の記述と系図を睨めっこしてたら「横井神助さんと横井越前守さんは別人なんじゃ?」と思えてきましたw

三浦氏の新井城を落とした後にも横井越前守さんが出て来るのですが、關東無雙の強弓、横井神助さんが「小田原に来て北條に属す」と出てくるのはその10年ぐらい後です。

ですが、ここで「関東無双」って言われてる時点で、「関東」で活躍してないと変なんだよなぁ…考えられるとすれば、早雲さんに血縁上近いが故にくっ付いて来た横井越前守さんを手伝いに来てて戦で活躍。その後改めて直臣になったってとこなのかな?それだと系図上の常時という名前の人が横井神助さんなのか?うーん分からんw

この中に名が見えないことを考えても、当初は韮山城に一門衆として在番していたと言う事かも。(ネット上では近郊の北条の地に横井一族が詰めていたとあった。)

第一次国府台合戦において 「小弓公方足利義明を射抜く」

「北条九代記鴻之台合戦」ですな。中央が小弓公方足利義明になります。


船橋市西図書館/船橋市デジタルミュージアムから拡大して見れるのでそのままご検索あれw

この戦いにおける両軍の戦い振りに関しては、資料によって記述がまちまちであり、正確な所は依然としてはっきりとしない。ここでは、最も信憑性の高いと思われる「小弓御所様御討死軍物語」の記述を中心に見ていく事にしよう。
前述のように、小弓軍は国府台に本隊を、また国府台の北側に隣接する台地である松戸の台(相模台)に椎津隼人祐ら率いる物見部隊を置いた。義明は、敵は国府台正面を渡河し、国府台と松戸の台の間の低地を通って国府台に攻め上ってくる、と読んで、国府台の市川河岸に防衛線を敷いて迎撃態勢を整えたのである。一方、氏綱は江戸城を出発後、浅草川(現・隅田川か)を渡り、中川から市川へ抜ける水路の分岐点である猿が股を通って松戸の対岸の金町あたりに着陣したものと見られる。
10月7日朝、北条軍は義明の予想に反して、着陣した金町あたりから直接渡河を開始した。松戸の台で物見をしていた椎津隼人祐は、いち早くこのことを義明に進注し、松戸の台に全軍を急行させて先鋒が対岸に到着する前に迎撃するよう要請した。だが、義明は敵が国府台に攻め寄せてくるのを待つと言って、本隊を動かさなかった。

午前9時、両軍先鋒による矢戦が始まったが均衡は破れず、北条方の先鋒が「御所様の 小弓の弱くなりぬれば 引きてみよかし 力なくとも」と言葉戦い(つまり挑発)を試みたが、逆に小弓方から「あずさ弓 互いに引くも引かれぬば 運の極みは 天にあるべし」という歌が帰ってくる始末で全く効果がなかった。

痺れを切らした氏綱は午後4時ごろになって、正面攻撃を下知した。しかし、あらかじめ国府台に防衛線を整えていた小弓勢の備えは堅く、北条軍は全く歯が立たない。そこで、若党達は守りの薄い国府台の反対側に回り込み、本陣に突撃を試みた。すると、突然の本陣直接攻撃に小弓勢は大混乱し、たちまち義明の弟基頼が討たれた。義明は、弟の討死に怒り、単騎敵陣に突入して二十数名を切り伏せたが、敵中深く入り込み過ぎて孤立し、横井神助に額を射られて息絶えた。

横井神助は弓の名手で、三人張十三束の強弓から放たれた矢は義明の鎧を貫き、三寸(約9cm)も突き出ていたという。総大将を失った小弓公方軍は総崩れとなり、1000余名が討死、この合戦によって小弓公方は滅亡した。

調べると、横井神助が小弓公方足利義明の射抜いた部位は「額」と「胸板」と2つありますが、胸の方はどうも江戸時代の軍記物の記載っぽいです。この人物は他にも「相州兵乱記」の記載において北条氏綱に中国の春秋戦国時代の将「養由基」の逸話から生じた鳴弦の儀を説明した下りがありますね。おそらくウィキペディアの養由基と鳴弦の儀を続けて読めば理解できると思うので下にリンク貼っておきます。

引き重量は三人張(65㎏~75㎏)、十三束は矢の長さで、普通の矢の長さは十二束。十三束はおおよそ98㎝超。一束は親指を除いた指四本を揃えたときの幅、指一本分を一伏せと呼ぶので一束は四伏せとなります。為朝さんが5人張~8人張、武田光和が10人張…うーん…これは面白いかもしれんw分かる限りこのまとめの末に引き重量ランキングでも作っておきますw

今古実録 第三号 真書太閤記 第丗一 「(第六) 北條家臣智者仁者勇者の事幷寡婦鱞男訴訟事」より抜粋私訳「上杉憲政配下の猛将荒井傳(伝)八を福島勝広と戦ってる最中に横合いから射落とす」(別リンク)

1 2 3 4 5 ... 11 12