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daiba49さん

昭和天皇の「ご聖断」を仰ぐことになった御前会議が8月10日午前0時3分から開催されたのであった。

 このような時系列から判断しても、日本の戦争指導部に終戦の決意を促したのは、原爆というよりはソ連であったということができる。

8月15日未明、軍の青年将校等によるクーデターが決起する。この日本にとって最も長く熱い日々を青年記者佐伯

中立国スイスが仲介役として米英から国体護持(天皇制維持)ができることを聞き出して日本側に伝え、昭和天皇が確信をもって終戦決断の根拠の一つとした可能性

戦後も天皇制認めるから 日本は降伏しろ?

東郷茂徳外相と軽井沢で会談していたことを記したゴルジェ公使の日記も発見されており、「イミュニテ カルイザワ」は「爆撃対象から外す」ではなく、国体護持を意味する符号で、ゴルジェ公使が日本を終戦に導く目的で米英に意向を確認した

今から70年前、太平洋戦争で本土決戦が迫る中、戦争終結に奔走したアメリカ人がいた。元駐日大使のジョセフ・グルーだ。
数多くの日本人の友人を持ち、皇室にも深い敬意を抱いていたグルーは、戦争終結のカギが「天皇」であることを大統領に訴える。しかしグルーの働きかけはギリギリのところで大きな壁にぶつかる…。
激動の時代、愛する日本を壊滅から救うために立ち上がった、ひとりのアメリカ人の孤独な闘いを描く終戦秘話

先ほど、海辺に木製の大砲を並べて偽装工作に従事させられた、陸軍二等卒の通信兵だった若いお父さんは、8月10日郷里から電報を受け取ります。

 2人いた子供・・・長男が数えで3歳、実際は生後2年と少し。次男はまだ生まれたばかりの赤ちゃんでしたが、その赤ちゃんが亡くなったという知らせ。

 餓死でした。

 単に餓死というだけではない。それは、お母さんのおっぱいが出なくなって、結局与えられる栄養が母子ともに払底して、力尽きて小さな命が終わった。

 若いお母さんの悲しみと絶望は想像を超えたものだったでしょう。まず自分がきちんと食べることができない。それに加えて乳が出ない。そのことで子供が飢え、ついに生んだばかりの小さな命を「絶やせてしまった」・・・。

 そうではないのです。何が悪いか?

昭和19年(1944)8月21日のことです。神奈川区の子安国民学校(こやすこくみんがっこう)の3年生から6年生の児童335名(24日との合計、後に追加64名)は、新子安駅から省線(しょうせん、国電の旧称、後のJR)に乗車し、横浜駅で東横線に乗り換え、大倉山駅に下車しました。大倉山からは縦列(じゅうれつ)を組み徒歩で新吉田町の常真寺(じょうしんじ)・浄流寺(じょうりゅうじ)、新羽町(にっぱちょう)の西方寺(さいほうじ)・善教寺(ぜんきょうじ)・専念寺(せんねんじ)などへ向かいました。この日から集団疎開(しゅうだんそかい)が始まりました。
昭和16年(1941)4月、戦時体制に即応するために小学校は国民学校に変えられました。港北区域では、日吉台国民学校・新田国民学校(にったこくみんがっこう)・大綱国民学校・城郷

昭和20年(1945)5月29日の横浜大空襲の時、大倉山で戦災に遭(あ)われた鋤柄敏子(すきがらとしこ)さんのお話をホームページ(http://homepage1.nifty.com/ASIBI/michikusa4.htm)で見つけました。皆さんも是非ご一読下さい。この鋤柄さんのお話の中にも出てきますが、大倉山の図書館(大倉精神文化研究所のこと)には戦時中に海軍気象部が入っていました。
昭和19年(1944)になると、日吉台の下に海軍の地下壕が掘られます(第20

第4回 「終戦の御聖断と父・阿南惟幾」

本土決戦か降伏か―徹底抗戦を呼号し、終戦の日の朝、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」との遺書・辞世を残して自刃した最後の陸軍大臣阿南惟幾。憧れの乃木将軍からの一言で、武士道を貫いた軍人生活が始まった。国家の未来を切り拓くために、精魂を傾け尽くした実直、廉潔、勇猛な希代の将軍の波乱と覚悟に満ちた生涯を、息子の視点から語っていただきます。

第142回 平成27年 7月16日(木)
「終戦秘話 撃墜された空の空母B29爆撃機」

学生の自主制作DVDを鑑賞します。都市無差別爆撃を行なったB29は意外にも700機余りが日本上空で撃墜され、その搭乗員を憎しみのあまりその場で殺した人々。またその搭乗米兵たちが秘密裏に非人道的爆撃を理由に処刑された歴史的事実。一方撃墜時に命を落とした米兵たちを手厚く葬り慰霊塔までつくって水害で塔が流されるたびに再建し続けた紀州の村人たちの話を語っていただきます。

山本玄峰老師が大正四年、ちょうど五十歳の頃龍澤寺に入寺され、九十六歳でこの世を去られるまでの約五十年間に太平洋戦争の終戦という重大な局面を迎えますが、今回はその終戦にまつわる玄峰老師の語録を紹介します。

 戦前日本共産党の中央委員長であった田中清玄氏は、玄峰老師の熱心な信徒の一人でした。終戦間近の昭和二十年春、老師は田中氏に「日本は大関じゃから、大関は勝つもきれい、負けるもきれい。日本はきれいに、無条件に負けることじゃ。(中略)そんな我慢や我執にとらわれておったら、日本は国体を損ない、国家はつぶれ、国民は流浪の民になるぞ」と言い、日本が早くこの戦争を終結させる事を願っていたといいます。

日本全てが戦争の災禍と軍属の重圧につかれきっていた昭和二十年七月。青年記者の佐伯は、そんな過酷な状況下でも己の信じる正義を貫かんと苦しんでいた。彼の周囲には、自分の思想を見失いつつあった作家の吉田や、冷酷な憲兵に傷つけられた娘君子など、戦争に苦しめられている人々がそれでも必死に生きている。山田二等兵は軍隊から脱走したため、妻の良子は世間から非国民の妻とさげずまれ、そして憲兵隊に追い詰められていた。山田が家に辿り着いた時、娘の年子は病床で苦しんでいた。そして追ってきた憲兵は山田を追い詰め、ついには妻の面前で銃殺してしまう。そして八月六日、広島に原子爆弾が投下された。いよいよ本土決戦間近と人々は竹槍を握り締める。だが、それから間もなく、昭和二十年八月十五日、終戦を迎えるのだった…。

日誌が語る日吉の連合艦隊司令部 ―終戦秘話その 18―
前回の続きです。防衛省防衛研究所の戦史研究セン
ターでは、連合艦隊司令部が木更津沖に停泊していた

けい

じゅん

よう

かん

おお

よど
から日吉の丘に移転してきた際の司令
長官、豊
とよ



そえ


の日誌 4 冊(うち 1 冊は戦後に作成され
たてき
摘ろく
録)を見ることができます。日誌は、個人的な感
情をあまり交えず、遂行中の作戦の状況や敵機の来襲、
参加した会合や基地の視察など、その日の出来事を箇
条書きで記したものですが、記載が 1 日 1 ページ以上
に及ぶ日もあり、多くの情報を知ることができます。
連合艦隊司令部の日吉移転に関わる記述が豊田の日
誌に初めて登場するのは、昭和 19 年(1944 年)8 月 15
日のことです。そこには「GF(連合艦隊)司令部陸上施
設至急研究」とあります。8 月 20 日、24 日には、移転
に関する打ち合わせが行われたこともわかります。ま
た、日吉の陸上施設への移転に関して否定的な空気が

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