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daiba49さん

戦前戦中の日本人を魅了した「八紘一宇」ということば。その謎に迫った『八紘一宇 日本全体を突き動かした宗教思想の正体』(島田裕巳)から、一部をご紹介する連載第2回。
 参議院予算委員会で、三原じゅん子議員がそのことばを突如もちだした背景、ことばの生みの親である宗教家・田中智学とは何者か。周辺事情も含めた概要をたどります。

八紘一宇ということばを作ったのは、日蓮信仰と皇国史観を合体させ、戦前において大きな影響力を発揮した田中智学(たなかちがく)という宗教家である。その田中が作り上げた組織が「国柱会(こくちゅうかい)」であり、そこには詩人で童話作家の宮沢賢治(みやざわけんじ)や満州事変を起こした石原莞爾(いしわらかんじ)、さらには伊勢丹の創業者、小菅丹治(こすげたんじ)などが加わっていた。

 田中の国柱会以外にも、日蓮信仰と皇国史観を合体させる「日蓮主義」と呼ばれる思想運動に共鳴、共感する人々は多く、「一人一殺」というスローガンを掲げて要人のテロを実行した井上日召(いのうえにっしょう)の血盟団や、「死のう、死のう」と叫びながら自殺行為を実行しようとした死なう団などがあった。

三原議員のなかで何かが起こっていた可能性がある。彼女は、八紘一宇の考え方を紹介する際に、昭和13(1938)年に出版された『建国』という本についてふれている。これは、清水芳太郎(しみずよしたろう)という人物が書いたものである。

 清水は、和歌山県の出身で、昭和9年に国家主義の政治団体「創生会」を組織し、12年から15年までは九州日報社の社長をつとめている。しかし、16年に飛行機事故で43歳の若さで亡くなっている。死後には全7巻の全集も刊行されており、言論人としてかなりの活躍を見せたことがうかがえる。

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