1. まとめトップ

この記事は私がまとめました

daiba49さん

対日講和条約発効により琉球諸島が日本から切り離され米統治となった一方、日本が独立した翌年の53年11月24日の拝謁で昭和天皇は沖縄への具体的言及はないものの基地問題について発言した。

 昭和天皇は「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一應尤(いちおうもっとも)と思ふ理由もあらうが全体の為ニ之がいいと分れば一部の犠牲は已(や)むを得ぬと考へる事、その代りハ一部の犠牲となる人ニハ全体から補償するといふ事にしなければ国として存立して行く以上やりやうない話」だとした。戦力の不保持などをうたった日本国憲法を巡っては「憲法の美しい文句ニ捕ハれて何もせずに全体が駄目ニなれば一部も駄目ニなつて了(しま)ふ」との見方も示していた。

 同年6月1日の拝謁では「平和をいふなら一葦帯水(いちいたいすい)の千島や樺太から侵略の脅威となるものを先(ま)づ去つて貰ふ運動からして貰ひたい 現実を忘れた理想論ハ困る」と述べた。旧ソ連など共産主義への警戒感を強め、米軍基地反対運動に批判的な見解を示していた。

昭和天皇が85歳だった1987(昭和62)年4月に、戦争責任を巡る苦悩を漏らしたと元侍従の故小林忍氏の日記に記されていることが分かった。共同通信が22日までに日記を入手した。昭和天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と記述している。
 日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。小林氏は昭和天皇の側近として長く務め、日記は昭和後半の重要史料といえる。

白人至上主義の奴隷バー(漢字変換が妙ですが)が黄色人種などを減らすために、ですか。天皇の沖縄への米軍駐留を自ら求め,反共のため、という名目を上げて、命乞いをしたという記録、米国で情報公開されましたが、、メディアは書きませんね。

『米国指令で「広島」原爆投下地決定したのは昭和天皇 !?』は、実は2011年8月『昭和天皇の戦争責任(1)』記事の中で既に述べられていたことです。「述べられていた」と他人事なのは、この記事は私自身が書いたものではなく、あるサイト記事の転載であるからです。
 この記事には「昭和天皇の戦争責任は明白だ」としか思えないエピソードがふんだんに盛られていますが、今回はそのうち「広島原爆投下」に特化して見ていこうということです。 
                       
 その前に、昭和天皇は先の戦争に本当に関与していたのかどうかだけは簡単に見ておかなければなりません。

 これについては、極東軍事裁判における、日米開戦時の首相だった東條英機の「我々は、陛下のご意志に逆らうことは有り得ないのであります。」という証言がすべてを物語っています。
 なおこの証言を知った昭和天皇は、超A級の戦争犯罪人として処刑されるのではないか、と焦ったそうです。それから天皇は、キーナン主席検事に上流階級の女性を提供するなどの裏工作を必死で行ったというのです。

、日米開戦時の首相だった東條英機の「我々は、陛下のご意志に逆らうことは有り得ないのであります。」という証言がすべてを物語っています。
 なおこの証言を知った昭和天皇は、超A級の戦争犯罪人として処刑されるのではないか、と焦ったそうです。それから天皇は、キーナン主席検事に上流階級の女性を提供するなどの裏工作を必死で行ったというのです。

 終戦までの昭和天皇は宮中の書斎にナポレオン像を置いていたほどの大のナポレオン狂で、太平洋戦争はナポレオンの戦略・戦術をなぞったものだった、という指摘もあります。
 緒戦となる真珠湾攻撃「成功」の報に接した時は、欣喜雀躍したそうです。
 戦時中の天皇は十分聡明で、一つ一つの作戦に御前会議などで直接指令を発していた、というのです。

(疑問)
天皇は軍事には素人で、戦争には主体的には関わらなかったのではないか?
戦争は軍部の独走であり、天皇はそれを抑えようとした平和主義者だったのではないか?
天皇は戦争について実態を知らなかったのではないか?(軍部は天皇に情報を与えなかったのではないか)
天皇が決断したからこそ、戦争が終わり平和になったのではないか?

昭和天皇が退けば天皇制が途絶えてしまうわけではなかったと指摘。そう指摘した上で「天皇の第二次世界大戦での責任はものすごく大きい」と主張した。

天皇制が存続したのは、日本の占領政策を円滑に進めるために、アメリカが「天皇を利用したほうがいい」という判断を下したため

1 2