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事業で失敗…多額の借金をした有名人

マネーの虎/南原竜樹/なんでんかんでん/川原ひろし/ドン小西/キマグレン/クレイ勇輝/杉田かおる/阿部寛/島田洋七/元木大介/石井竜也(米米CLUB)/さだまさし/千昌夫/石川さゆり/矢沢永吉/藤田まこと/小林旭

更新日: 2019年12月03日

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この記事は私がまとめました

wappameshiさん

多額な借金をしていた意外な有名人

*1位 阿部寛 推定数億円完済 
*2位 林修 推定1,800万円 
*3位 明石家さんま 推定6億5千万円完済 
*4位 舟山久美子 4,000万円完済
*5位 矢沢永吉 推定35億円完済
*5位 江川卓 推定50億円返済中
*7位 さだまさし 推定35億円完済
*8位 ウド鈴木 800万円
*8位 石井竜也 推定10億円
10位 加山雄三 推定23億円

11位 小林旭 推定51億円完済
12位 松居一代 1億7500円完済
13位 博多大吉 250万円完済
13位 アントニオ猪木 推定10億円以上
15位 石田純一 3億円完済
16位 カンニング竹山 推定450万円
17位 坂上忍 1億円完済
18位 千昌夫 推定2000億円以上
19位 ガッツ石松 3億円完済

川原ひろし(マネーの虎)

川原氏は、'87年に当時都内では珍しかったとんこつラーメン店「なんでんかんでん」を東京・世田谷にオープン。店は連日3時間待ちは当たり前で、最高年商5億円にも上る人気店となった。
さらに、'01年に「¥マネーの虎」に投資家として出演するようになると、川原氏の知名度も急上昇。店もさらに繁盛し、“ラーメン文化”を築き上げた川原氏は“カリスマ社長”として知られるようになった。
現在ラーメン店「なんでんかんでん」は、全店舗閉鎖に。

川原は福岡から歌手を目指して上京したが、東京には“なんちゃって豚骨ラーメンしかない”ことに気付き、開業資金の800万を父に借り、父の会社の子会社として1987年に環状7号線沿いに「なんでんかんでん」をオープン。
しかし当初の2年半で2500万の借金を作り、焦って東京じゅうの出版社にラーメン無料券のついたファクスを送りまくると取材が殺到。「豚骨ラーメン店では都内に右に出る店はない」「本場の博多よりうまい」などと記事にしてもらえて評判となり、話題作りの「プリント海苔」で広告をとったり、硬い麺の表現として知られる「粉落とし」を名付けたりと、やることなすこと大当たり。店は3時間待ちの大行列、1日の売上3万円が120万となり、なんでんかんでんフーズ株式会社代表取締役に就任。年商4億まで売り上げたという。

しかし、スープの異臭問題、行列の騒音、路上駐車による環七渋滞などで近隣住民から苦情が相次ぎ、警察も出動。
さらにしくじったのが、1日300杯分しかスープが作れなかったのに1200人集まってしまうため、「スープを4倍も薄めてしまう」と、お客が激減して売り上げは10分の1以下に。

スープの濃さを元に戻したら、売上は最盛期の半分にまで回復した。
この後、「マネーの虎」に出演依頼が来る。会社の知名度も上がり、再び「なんでんかんでん」は成長軌道に乗り始める。年商は5億円となった。

しかし、調子に乗って江の島に海の家を出店して500万の赤字、オリジナルTシャツをドーンと作って大量在庫、「ラーメンロック」でCDデビューしてまったく売れずと大失敗。

店の管理を従業員に任せたため、様々な問題が起こった。スタッフに1700万持ち逃げされ、店をほったらかしにしていたことで気付くと焼肉店になっていたりして結局はマイナス2000万を計上。

現場に出ることが大事と教訓を得て売り上げが回復してくると、またスープを薄めてしまう。
そして、「3回目は店が無くなった。ノー店舗でフィニッシュです」。
今から4年前、開業から26年で全店舗を閉店することになったという。

南原竜樹(マネーの虎)

南原氏は24歳で自動車輸入販売会社を設立し、一時は年商100億円をたたき出したすご腕社長。バラエティー番組「マネーの虎」に出演したことで知名度を上げた。
2003年にイギリスの老舗自動車メーカー、ロータス、MGローバーの輸入権も獲得し、年商は100億円を超えた。
しかし、「マネーの虎」終了から約1年後、南原氏は100億円の損害を出し、ホームレス生活を送っていたという衝撃の事実を告白する。

私の人生は、番組(マネーの虎)終了から約1年後の2005年4月にローバーが経営破綻したことで一変しました。
経営の柱だったローバーを失った時点で、会社には30億円の借金が残りました。私の頭には「倒産」「自己破産」の言葉が浮かびました。

まずは預金をすべて返済に充て、各地にあったショールームを売却するなど資産を処分し毎月約1億円ずつ返済しました。
資産や在庫の売却がうまくいかず返済日に間に合わない時には、知人の会社などから借金し、それでも足りないと高金利の金貸しに手を出したこともありました。
オフィスの机とイスを毎日1セットずつネットオークションに出し、売り上げの約3500円を生活費に充てました。食事は、ひとつ50円の具の少ないカレーパン。たった1個で1日過ごすこともざらでした。

当時住んでいた六本木ヒルズのマンションも退去し、「住所不定」になってしまいました。マンションの敷地内にある公園のベンチに横になり、そのまま夜を明かそうとしていたら、守衛に「ここは私有地だから寝るな」と追い出されました。

先日まで目の前の高層マンションの住人だった私が、その下の公園にさえ入れないホームレスになったのです。六本木ヒルズの前の坂道を麻布十番方面に下り、バス停のベンチで寝ることになってしまった。

転落から約1年。“敗戦処理”も順調に進み始めると南原氏は復活へ向けて本格的に動き出す。知人の会社の一角に居候する形で、少ない資本金で始められる人材派遣業を開始。高齢化を見据え、医療・介護に力を入れた人材派遣業が成功し、事業は軌道に乗った。さらにM&Aの仲介、旅館の再建、レンタカー事業、腕時計の輸入販売に飲食業と、幅広く事業を拡大。社員数もグループ全体で3000人を超えた。(週刊ポスト)

ドン小西

ファッション評論家として、ワイドショーなどで活躍しているドン小西。独特の色使いからなる作風から、かつては“色の魔術師”と呼ばれ、日本を代表するファッションデザイナーとして世界に名をはせていた。

しかし、ドン小西は“自分のセンスは絶対に正しい!”という過剰な思い込みが原因で、年商60億円にまで成長したが、借金15億円を抱えるというどん底にまで落ちてしまう。

1981年に独立し自身のファッションブランド「d.k.f - Produced by Don Konishi」「FICCE」「YOSHIYUKI KONISHI」を立ち上げる。
若くしてセンスとアイデアで頭角を現し「色の魔術師」と称されたドン小西には、バブルの真っただ中で巨万の富が転がり込んできたという。
30代から40代にかけてのドン小西は、従業員を雪だるま式に増やし、1997年にはニューヨークコレクションでデビュー。マンハッタンにオフィスも構えたそうだ。

2004年ドン小西は自身のブランド「FICCE」を売却。ドン小西は実家の不動産も銀行に差し押さえられ、保険もすべて解約するほど追い込まれた。精神的にもうつ状態となった上、妻とも離婚して現在は孤独な一人暮らしを送っていると告白する。

花田虎上(第66代横綱・若乃花勝)

相撲引退後、2002年にドリームアーク社を設立。代表取締役会長として、全国に店舗展開する「Chanko Dining 若」「うどんダイニング若」等、またフードコート業態「わかどん」「ちゃんこうどん」をプロデュース。「Chanko Dining 若」は一時は全国24店舗を展開し、最盛期の2007年7月には年商16億円を計上していた。
2008年11月、同社の代表取締役会長を退任し、経営権も売却。以降はプロデュースのみ担当。

2010年5月6日、ドリームアーク社は東京地裁に自己破産を申請。負債額は約4億5千万円であった。「Chanko Dining 若」は、その後別法人によって運営され、2012年現在西日本を中心に2店舗営業している。
2012年から個室居酒屋業界大手のアンドモワ株式会社において個室居酒屋「若の台所」「赤鶏御殿」、ラーメン屋「若のらーめん」をプロデュースしている。

さだまさし

28歳のさださんは、中国大陸を流れる揚子江を舞台にしたドキュメンタリー映画『長江』(81年)を製作した。
映画は興行的には成功したが、それ以上に諸経費がかさみ、総計28億円、金利まで入れると35億円近い負債を個人で背負うことになる。
会社を維持し、社員に給料を払い、なおかつ税金も払いながらの返済は、かなり厳しかった。10日ごとに8千万円、5千万円、1億5千万円という手形を落とさなければならなかった。
返済するのに30年かかったが、その間は、何があろうと歌手をやめるわけにはいかなかったという。

借金を返済する過程で感じ、学んだことのひとつが“人の情け”だったという。銀行の担当者をはじめおおぜいの人たちが、さださんを助けてくれた。さださんは「僕は本当に人に恵まれているな」と感じたことが何度もあったそうだ。

元キマグレンのクレイ勇輝

クレイは2005年に地元の友人と“キマグレン”を結成。08年「LIFE」が大ヒットし、同年の紅白に初出場。昨年、活動10年でユニットは解散した。
実は、アーティスト活動を開始する以前から、会社を経営する“社長”だったクレイ。その会社では、逗子海岸でアーティストのライブを楽しめる海の家『音霊』を運営しており、ライブができる海の家というコンセプトは画期的で、10年夏には4億円の売り上げを記録するほど大盛況となる。

一躍、“逗子の顔”となったクレイだったが、海の家はさまざまな問題が巻き起こり、近隣住民からひんしゅくを買って居場所を失い、逗子から撤退。挙句、借金2億円を背負うことになってしまったという。
クレイはそんな事態を招いた背景には、自身のしくじった性格があると分析。どんな状況でも常に「大丈夫でしょ!」とポジティブ思考で突っ走ってしまうポジティブなバカ=ポジバカを猛省する。

杉田かおる

7歳でドラマ「パパと呼ばないで」('72~'73年)に子役としてデビューして以来、「池中玄太80キロ」や「3年B組金八先生」など数々のドラマに出演し、卓越した演技力を披露してきた杉田。
歌手としても大ヒットを飛ばし、その後は“負け犬キャラ”としてバラエティー番組でもブレークした。しかし、その杉田はスキャンダルで180回も雑誌に掲載されたことがある、“トラブル連発のスキャンダル女王”でもあったという。

【借金地獄】
苦難な人生を送っている。杉田氏が13歳の時には事務所が倒産、次の事務所を脱退する時には2,000万円もの負債を抱えている。借金を背負いながらも独立した彼女は、写真集のグラビアモデル等でギャラをアップさせることに成功し、最後は自身のマンションを転売し借金を返していきます。
しかし、その後父親の借金まで背負い1億円もの借金を抱えたのだ。大半の財産を失い「残った全財産は小銭入れの中の800円だけだった」という。さらに仕事も激減しどん底に陥ったが、ヘアヌード写真集の発売とバラエティ番組へ出演し見事借金1億円を完済する。
1998年に篠山紀信撮影による自身初のヘアヌード写真集「女優ごっこ」を出版。17歳時に撮影したヌード写真と34歳を迎えるに当たって撮り下ろしたヘアヌード写真で話題を呼んだ。
2000年頃からバラエティー番組に出演し、毒舌キャラが人気となりブレイク。無頼派タレントの異名を取るようになり、出演番組も激増する。

【宗教騒動】
杉田かおるは宗教の創価学会に入っていた時期がある。しかし、杉田氏は創価学会を脱会している。杉田かおるが自書『杉田』(2005年11月発売 小学館発行)で自分が創価学会で体験した内容を元に、創価学会幹部や池田大作について事実を暴露した。学会幹部メロン下げ渡し事件や複数の男性幹部からセクハラまがいの行為を受けたとを暴露している。

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