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世界最大の戦艦「大和」は実は2代目!日本海軍には初代「大和」が存在した

世界最大の戦艦として有名な「大和」、実は2代目であったって知ってましたか?日本海軍の初代「大和」について紹介します。

更新日: 2019年02月23日

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Parabellumさん

初代大和とは

日本海軍で、大和と言う名前は、ご存じのように2代目です。では初代はどんな軍艦だったかというと、鉄骨木皮という、極めて珍しい構造の国産艦で、なかなかスマートな機帆船、つまり、基本的には帆船ですが、時々使うために蒸気エンジンも積んでいる、いわば昔のハイブリッド艦なのです。

鉄骨木皮というのは鉄の骨組みに木の板を張るという船の構造のこと。機帆船というのは動力機関(初代大和の場合は蒸気機関)と帆を両方使うという動力を2つ持つ船のこと。

太平洋戦争で活躍した世界最大の戦艦。

スループというのは軍艦の区分の1種。

初代大和は、明治16年度計画,の巡洋艦で,小野浜造船所で建造されました。

日本海軍最初のケースとして民間の神戸小野浜造船所で建造された。

呉・横須賀に海軍工廟が移るまで小野浜造船所が日本海軍の国産艦艇を作っていた。

明治16年に起工されたのですが、途中小野浜造船所のオーナーであったキルビーが、経営不振から拳銃自殺するなどのトラブルがあり、竣工は19年となっています。巡洋艦に類別されて、日清戦争、日露戦争に参加後は特務艦(測量艦)として活躍しました。

初代艦長は世界最強のロシアバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を明治38年(1905年)5月27日に日本海で殲滅する事になる東郷平八郎中佐(当時、在任中に大佐昇進)であった。

日清戦争には、僚艦とともに威海衛百尺崖攻撃や劉公島砲台の砲撃などに活躍した。

日露戦争では、第一線を退いて特務艦として測量任務に就き、日本近海の海図作成を進めた

大正元年(1912年)8月28日に、二等海防艦となりその後期から測量任務として長期間に従事、また日本海中央部に大和堆を発見した。

大正11年(1922年)8月28日に、姉妹艦「武蔵」と共に特務艦(測量艦)となった。

昭和10年に特務艦籍から除籍されて司法省に移管されて、浦賀港に繋留して少年刑務所(漁労実習船だったかと記憶します)として使われていました。

太平洋戦争中に廃船となり、解体のために横浜に回航されましたが、終戦の混乱の中で台風にあい、鶴見川付近で沈没してしまい、25年にその場で解体されました。

命名は明治天皇陛下

この大和の艦名は、明治天皇が決めたことが、はっきりしていることでも貴重な艦名です。当初艦名案をいくつか天皇に示したところ、「もっと良い名前はないのか、大和、武蔵とか・・」というお言葉があり、そのまま決まったと言われています。

映画にも出演

殆ど気が付いている人は居ないようですが、実は初代大和は映画に出演しているのです。先ほど除籍後に浦賀に繋留されていたと書きましたが、昭和14年から浦賀で陽炎型駆逐艦「浜風」が建造され、昭和16年6月に竣工しています。当時この浜風の工事を背景にした映画、「八十八年目の太陽」が浦賀で撮影され、開戦直前の昭和16年11月に公開されました。

竣工した浜風は(映画の中ではハヤカゼとされ、舷側の艦名も一文字だけ書き換えられていました)関係者の万歳に送られて浦賀を出港して行くのですが、浦賀を離れて行く浜風が、何と初代大和のすぐ脇を行くのです。私は、この大和の方にビックリした記憶があります。

諸元

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