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どれが西郷さんのホントの顔なの?

歴史の教科書にも載っている西郷隆盛の写真は本人ではなく、想像で描かれたものだというのは有名な話です。写真が存在しないとされていますが、いくつかの写真が実際に発見されているようです。

更新日: 2015年09月23日

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radiconさん

薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。

西郷隆盛といえば上野の銅像や教科書に載っていた肖像画を思い浮かべますが、実はそれらは西郷本人ではありません。それどころか西郷隆盛の写真は1枚も残っていないのです。

死後に西郷の顔の肖像画は多数描かれているが、全ての肖像画及び銅像の基になったと言われる絵(エドアルド・キヨッソーネ作)は、比較的西郷に顔が似ていたといわれる実弟の西郷従道の顔の上半分、従弟・大山巌の顔の下半分を合成して描き、親戚関係者の考証を得て完成させたものである。

西郷 従道は、日本の武士、陸軍および海軍軍人、政治家。西郷隆盛の弟。名前の読みとして「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家によると「じゅうどう」が正訓である。

大山 巌は、日本の武士、陸軍軍人、政治家。幼名は岩次郎。通称は弥助。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。

しかし・・・

1899年、銅像の除幕式に列席していたイト未亡人は、「うちの人はこげん人じゃなか!」と言ったそうです。この発言については、当時の士族が膝までの着物に兵児(へこ)帯という格好はしないと言う意味だったという説と、単純に顔が違うという意味だったとする説があります。

本当はどんな顔だったのでしょう?

■フルベッキ写真

フルベッキ群像写真(フルベッキぐんぞうしゃしん)は、在米オランダ改革派教会から派遣されたオランダ出身の宣教師グイド・フルベッキとその子を囲み、上野彦馬のスタジオで撮影された44名の武士による集合写真の俗称。

慶大の高橋信一準教授によると、「(フルベッキ写真に)写っているのは致遠館関係者たち。撮影時期は明治元年10月23日から11月19日だろう」との論考を公開した。

致遠館(ちえんかん)は佐賀藩が設立した藩校。西郷隆盛は1828年1月23日生まれのため、明治元年(1868年)では40歳ということになる。

写真の後列中央にいる人物が西郷隆盛とされています。ガッシリとしている感じがイメージ通りの西郷さんのようにも見えますが、あまりに若く40歳には見えない。

なぜ、近年になって注目されたのか。
肖像画家とされる島田隆資が、昭和49年・51年の二度、雑誌「日本歴史」に論文を発表したのが、事のおこりだった。「フルベッキ写真」の撮影時期、そして撮影されていた人物の20数名を特定。注目をあびたのだ。

この人物はまた、会津藩から見つかったいわゆる「13人撮り写真」にも写っており、西郷隆盛説がさらに盛り上がることになりました。

■13人撮り写真

会津藩で発見された「13人撮り写真」。

これはフルベッキ写真の人物と同一人物のようです。

このような中、2013年4月23日、読売新聞にフルベッキ写真に関する興味深い記事が掲載されました。

■佐賀藩士の写真

このような中、2013年4月23日、読売新聞にフルベッキ写真に関する興味深い記事が掲載されました。フルベッキ写真は、従来言われていたような維新志士の写真ではなく、佐賀藩の藩校の生徒を映したものではないか、という説です。

佐賀藩が幕末、長崎に設けた藩校・致遠(ちえん)館で教育にあたったオランダ生まれの宣教師フルベッキ(1830~98年)と佐賀藩士ら計7人が写った古写真のガラス原板が見つかった。記録から明治元年(1868年)に写真家・上野彦馬が撮った可能性が高いという。撮影者や撮影日が分かる古写真は珍しく、貴重な発見だ。

見つかったガラス原板。前列の右がフルベッキ、その左隣が伊東次兵衛とみられる。

この写真には、フルベッキ写真、13人撮り写真で、西郷隆盛ではないか、といわれていた人物が後列右端に写っています。

古写真研究家の高橋信一・元慶応大准教授によると、原板に写る佐賀藩士の一人で、中老などを務めた伊東次兵衛の日記に、明治元年10月8日に長崎にあった上野彦馬の写真館にフルベッキらと出かけ、写真を撮ったことが記されている。「若い武士は月代(さかやき)をそっておらず、時期は幕末から明治期。日記にある通り明治元年の撮影と考えられる」と言う。

フルベッキ写真の推定とほぼ同じ日程で写真撮影されています。これによってフルベッキ写真と13人撮り写真は明らかに西郷さんとは違うようです。

■別の集合写真

ここに、また新たな説があります。

西郷隆盛は暗殺を警戒して写真を残さなかったといわれています。しかし、江戸城の御用写真家で明治天皇の写真も撮影した内田九一が撮影した、薩摩藩士の集合写真に写っている人物が西郷隆盛ではないか、という説です。

右から2番目が西郷隆盛と言われている写真。小田原瑞哿(おだわらずいか)という島津家の医者説が有力

西郷隆盛の写真があるかどうかが今でも議論になる。例の有名人集合写真なるものは論外だが、恰幅のいいおじさんが島津家の御曹子たちと一緒に写っている写真が西郷ではないかと言われたりする。重富島津家の侍医、小田原瑞哿であることは島津家の関係者の証言で明らかで、すでに数十年前に決着済み。

■青森の写真

さらに、青森県にて発見された写真が物議をかもしています。

西南戦争に呼応して挙兵を企てた南部藩士の関係者(三戸町か田子町の旧家)が所有していた写真だというのです。

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