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BonoReedさん

「U2の悪の双生児」と紹介されているこの怪しげなバンド。何を隠そう彼らこそが、ダブリンの悪ガキ集団リプトン・ヴィレッジから巣立ったU2以外のもう一つのバンドVirgin Prunesの面々です。

バンド名の由来はボノ、ギャヴィン、グッギが住んでいたダブリンのCedarwood Roadという地区の裏手に精神病院があり、壁越しに見えた患者たちをそう呼んだことに由来します。社会から排除された異端者という意味合いです。ちなみに写真の最後列左端にいる長髪、髭、眼鏡の人物がU2のギタリスト・エッジの兄・ディック・エヴァンス。当初ディックはU2の前身バンドThe Hypeのメンバーだったのですが、他のメンバーとそりが合わず、半ば解雇される形でバンドを去り、その後VPに加入したのです。

「俺たちには共通点が沢山あった。俺たちはフットボールを憎んでいた。俺たちはサイダーを飲みながら駄弁るのを憎んでいた。そして俺たちはLypton Villageというギャング集団を結成して、お互いの家の居間で会合を開くようになったんだ。俺たちは有名になって世界を変えるんだって空想に耽っていた。俺たちはお互いにあだ名をつけた。ボノは近所の補聴器店の名前から取って、『オコンネル・ストリートのボノ・ヴォックス』と呼ばれていた。そして俺は頭が正方形の形をしていて、ワヴィン・パイプに似ていたらから『ギャヴィン』、その曜日はいつも暇していから『フライデー』、合わせてギャヴィン・フライデーと呼ばれていた」(ギャヴィン・フライデー)

ロックの王道まっしぐらだったU2とは対照的に、VPは裏街道まっしぐら。「ナポレオン」「裁かるるジャンヌ」などの出演し、詩、小説、脚本などを著したフランスの俳優・アントナン・アルトーに傾倒していた彼らは、その演劇論に則った演劇、音楽、文学、美術を融合させた総合パフォーマンス集団を指向していました。パンクムーブメントが終わり、ニューウェーブと呼ばれる多様な音楽が生まれていたこの頃、彼らの音楽はポジティブ・パンク、略してポジパンと呼ばれていました。バンドを結成するとVPは他の海千山千のバンドと同じくダブリン界隈で頻繁にギグを行い評判を高めていきます。U2などはVPをよく前座に起用し、彼らを手助けしたそうですね。そして81年、VPはUKのインディーズレーベルの草分け的存在・ラフトレードから「Twenty Tens」「Moments and Mine」という2枚のシングルをリリースします。動画を貼り付けたいところですが、ようつべには見当たりません。いずれにせよ人を選ぶ音楽で、U2のマネージャーであるポール・マクギネスが「U2の客を減らす」と言ってVPとの共演を嫌がったのも分かります。

なお「Moments and Mine」のジャケットには、U2の「Boy」「War」のジャケットにも登場したグッギの弟・ピーター・ロゥエン君が起用されています。ピーター君は、立派に成長して、現在、ロック系の写真家をやっており、U2の写真を撮ったこともあるそうです。

自由な校風のマウント・テンプル・スクールに通っていたU2のメンバーと違って、カソリック系の厳格な学校に通っていたギャヴィンには、カソリックに対する反発心があり、このような作風になったということのようです。同じカソリック系の厳格な学校に入れられてグレたマリリン・マンソンと同じパターン。が、ボノが「ニューヨークでもロンドンでもやっていないことをこのダブリンでやっていた」と言うように、当時としてはVPの音楽性は非常に前衛的かつ画期的で、一部マニアを熱狂させました。日本でもフールズ・メイトという音楽雑誌がプッシュしていたらしく、一部では注目されていたようです(が、結局、VPの来日公演は実現せず)。

この頃のアルバム未収録のシングルは「Over The Rainbow」というコンピに収録されています。

81年1st「New Form A Beauty」

LP時代はシングル盤がPart1から4まで発売され、結局実現しませんでしたが、この後Part5の展覧会、Part6の書籍、Part7の映画と続く予定だったようです。最近、ビョークが「Biophilia」でスタジオ・アルバム、アプリ、ウェブサイト、ライヴ、教育的なワークショップからなるマルチ・メディア・プロジェクトなるものをやりましたが、それを先取りしていたといっても過言ではないでしょう。このへんにも彼らの鋭敏な感性が偲ばれます

おれは混乱した。ここには「脈絡」とか「一貫性」っちゅーものが全くない。もうちょっと言えば、バンドとしてのスタンス、がサッパリ分からない。それに何でこの音でこのジャケットなんだ?こぉゆう時おれは黙って10回20回と聴くことにしてる。理解したって仕方ない、そぉゆうモンなんだ、と「諒解」することが大事なのだ。そしたらハマッてしまった。

82年2nd「Heresie」

LPでは2枚組10"BOX+4ページ×5冊リーフレットだった、スタジオ盤とライヴ盤2枚組。

82年3rd「If I Die I Die」

VPのみならずポジロクの代表作と言われ、今なお名盤の誉れ高いアルバム。ホットプレス誌が選ぶオールタイムベスト第46位に選ばれています。プロデューサーはポスト・パンクのカリスマ・バンドWireのコリン・ニューマン。売れっ子プロデューサーを起用したあたり、VPなりのメジャー化路線だったと言われています。恐らくロックスターの道を歩み始めたU2に刺激されたのでしょう。

タバコとドラックで紫にくゆる酸欠空気の中、フロントマンのGavinとGuggiが禍々しくも神々しい佇まいで登場、客たちの熱狂も最高潮となり…。83年当時のプルーンズのウリといえば、何といってもこの幽鬼の様な白塗り顔に女物のドレスを纏った二人のフロントマンのくんずほぐれずのパフォーマンスだった……とにかく「今まで見た事のないすごいもの」……彼らは、いかに悪魔に取り憑かれたエクソシストの少女の様にふるまおうと、性的な動作を繰り返そうと、恐怖や嫌悪を感じさせる事はなく、ただただそのめくるめくインプロビゼーションの応酬に私は目をうばわれていた。野獣の様にステージ狭しと駆け回っていたかと思うとけだる気に煙管をくゆらせ老齢の男爵夫人のごとく振る舞うGavinの姿を、虚ろな瞳で空を見つめるこわれたフランス人形の様なGuggiの姿を、とてつもなく高貴な美しいものと感じてしまったのだ。まさにA New Form Of Beauty!がに股歩きでスカートたくしあげても美しく見えるなんてすごすごる!!

85年4th「Sons Find Devils」

LPとビデオのセット。LPはCD化されていますが、ビデオは未DVD化。

この前年にディックがバンドを脱退しています。政府から奨学金どころではなく給料を貰って大学へ通うほどの秀才だったディックは、現在はコンピューター関係のエンジニアをやっているそうです。

86年5th「Moon Looked Down & Laughed」

この頃から後のギャヴィンのソロっぽくなったためか、一般に評価が低いラストアルバム。後にU2の「Actung Baby」「Zooropa」「Pop」をプロデュースを手がけることになるフラッドがミキサー&エンジニアとして参加しています。フラッドをU2に紹介したのはギャヴィンです。

「僕が Joshua Treeに抜擢されたのは、多分1983年にVirgin Prunesの仕事をしていて、そして当時、彼らがJoshua Treeに向け、アンビエントでオープンな音を求めていたからなんだ。そしてギャヴィン・フライデーが……彼には感謝しつくせないよ……僕がベルリンでレコーディングしたニック・ケイヴの2枚目のアルバムをボノに聴かせたんだ。その中の『Wanted Man』という曲に関して、彼はボノに『これを聴けよ。多分お前が追い求めているものはこれだと思う。そして俺はこいつと仕事をしたことがある』と言ったんだ。それを受けてボノは僕に電話をかけてきて、『オーディオ・インタビューを受けてみないか?』と誘ってくれた。その内容は、基本的にJoshua Treeの黎明期の段階を2週間手がけるというものだったんだ」(フラッド)

が、映像からもわかるとおり、このアルバムの発表直後、グッギが脱退。続いてギャヴィンも脱退して、VPは実質解散します。俺たちもU2のように……というわけには行きませんでした。

なおギャビンとグッギが抜けた後、残ったストロングマン、マリー、そしてデイヴ - Idの3人はThe Prunesと名前を変えて91年まで活動し、アルバムを3枚残しました。デイヴは現在でもソロアーチストとして活動をしています。作風はVPとほとんど同じですね。

その"Dave-id Busaras"がWEBで楽曲を無料配布していました。 全てダウンロードして聴いてみたのですが、これが無料とは信じがたいほど、素敵な作品。1999年に発表されたこれら作品の中でも、インド音楽との融合に位置づけられる"Trust In Me"と障害を持つ彼の歌声のマッチングに感涙。Massive Attackにも通じるサウンドが"いい感じ"であるということ以前に、そういう人生背景を持つ人物が"私を信じて"と訴えかけてくるその様は、究極の音楽の姿かもしれません。

VPはなぜ成功できなかったのでしょう?

一つにはそのマニアックな音楽性があるでしょう。またあくまでもライヴパフォーマンスが主でしたので、その分、曲が単調な嫌いもありました。彼らもそのことがよく分かっていたのか、「If I Die I Die」でメジャー路線に舵を切ります。その際、初期からの熱狂的なファンの何割かを失うのは折込ずみで、より広範な支持を受けるべく、なんらかの手を打つのが定石ですが、彼らはそれを怠った。というか、そういうことにあまりにも無頓着だったのではないでしょうか?


ちょっとここでU2とVPのライヴマップを比較してみましょう。


U2(80年~81年のBoyツアー)
http://www.setlist.fm/stats/concert-map/u2-23d6b80f.html?tour=Boy+Tour

VP
http://www.virginprunes.com/articles/performances/


これを見るとU2はUKで集中的にライヴを行い、各地を細かく回っていることが分かります。また母国アイルランドでもダブリンの他コーク、スライゴー、ゴールウェイと各地でライヴを行っています。これに対してVPは、初期はほとんどロンドンとダブリンだけ、また82年にアルバムを二枚出して音楽活動を活発化させてからは、オランダ、ベルギー、フランス、イタリア(特に多い)、スイス、ドイツとヨーロッパ中を回り、U2に比べてUK、アイルランドの比率が著しく低くなっています。


バンドの性格の違いを考えれば、単純比較はできませんが、ポピュラーミュージックの中心地であるUKを疎かにしたことが、そのマニアックな音楽性のみならず、VPの敗因の一つなのではないでしょうか? 恐らくギャヴィンの頭の中は「ヨーロッパ(のアンダーグラウンド)は俺のものさっ」という思いでいっぱいだったのでしょうね。とはいえVPはいまだにカルト的人気を誇っているわけですから、ロックの長い歴史から見れば、成功の部類に入るのでしょう。


アイルランドに一瞬だけ咲いた奇跡のようなバンド。

VPを脱退した後、ギャヴィンはダブリンの中心部を流れるリフィ川沿いにあるThe Blue Jaysusというナイトクラブの雇われ経営者になりました。演奏していいのは50年以降のロックンロールだけ、ギャラはワインのボトル二本という条件で地元の無名のミュージシャンにステージを提供。それ以外にもHothouse Flowers、The Waterboys、Clannad、マリー・コクラン、フィル・シェヴロン、果てはDef Leppard、ヴァン・モリソンなどの大物ミュージシャンもやって来て、ステージで演奏したそうです。まさにダブリンの「魔法の時間」ですね。

またこの頃、U2が「The Joshua Tree」をレコーディングしていたスタジオの2階をグッギ、チャーリー・ウィスカーというアイルランド人の画家と占拠して、絵描きに勤しんでいました。ボノにとってはいい気晴らしになったようですが、ギャヴィンは絵を描くためにVPで得た金をほとんど使い果たしてしまったのだとか。またギャヴィンはU2の「With Or Without You」の誕生にも深く関わったようです。この頃に描かれた絵は、88年、ボノがエチオピアで撮った写真と合わせて「Four Artists, Many Wednesdays」というタイトルの個展で公開されました。

そして87年、The Golden Hordeというバンドのサイモン・カーモディとの共作で、ストーンズのこのカバーをリリースしました。欲しいものがいつも手に入るわけじゃない」というのは、VPでロックスターの夢叶わなかったギャヴィンが、ソロ活動を始めるにあたっての決意表明かもしれませんね。またこの頃、The Man Seezerことモーリス・シーザーと、とあるチャリティライヴで共演し、意気投合した二人はデモテープを制作。そしてこのテープが、U2を見出したことでも知られるアイランド・レコード社長クリス・ブラックウェルの目に留まり、同会社と契約。二人はニューヨークでレコーディングに入ります。

89年1st「Each Man Kills the Thing He Loves」

シーザーとの共同名義。プロデューサーはトリビュートアルバム制作の名手で、ルー・リード、マリアンヌ・フェイスフル、ローリー・アンダーソン、果てはウィリアム・バロウズやアレン・ギンズバーグなどのビートニック詩人の朗読のプロデュースでも知られるハル・ウィルナー。バックミュージシャンにはマーク・リボー、ビル・フリーゼル、フェルランド・サンダーズ(ルー・リードのバンド)などの実力派が顔を揃えました。ちなみにアルバムのアートワークを担当したのはアントン・コービン。

この曲はアルバムには収録されていませんが、当時、ライブで頻繁に歌っていた曲。

92年2nd「Adam 'N' Eve」

プロデューサーは再びハル・ウィルナーとフラッド。「Falling Off the Edge of the World」という曲でLone Justiceのマリア・マッキーがバックコーラスで参加。期待されながらも結局売れなかったLone Justiceですが、U2の前座をよくやっていたので、その関係かもしれません。

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