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mototchenさん

軍縮会議

出典ameblo.jp

ワシントン会議に出席した日本側の全権代表団は、外務省の幣原喜重郎、海軍出身の加藤友三郎海相、徳川宗家出身の徳川家達公爵

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アメリカはどういうつもりであったのか

“軍縮会議におけるアメリカ海軍の内情はどうであったか。その当時、私はそれを詳らかにしなかったが、ワシントン会議が済んで後、その頃海軍次官をしていたシオドル・ルーズベルト・ジュニア(日露戦争のころの大統領ルーズベルトの長男)が日本にやって来た。そして私を訪ねて、互いにワシントン会議の当時を回想して打解けた話をした。”

正直に白状すると、軍縮会議の結果については、アメリカ海軍の首脳部の予想に反したことが二つあった。
その一つは、アメリカが提案すべき各国海軍の比率をどう決めるかであって、これが外部に漏れることを極端に恐れて、代表部内のごく少数の者がその議に加わった。
現在保有している軍艦を基準にしてソロバンをはじくと、五・五・三即ち十・十・六にはならない。日本は少し足りない。三ではなくニ半か二・七だったのだろう。この小数点以下をどうするかについて、盛んに議論が起きた。
すると国務長官のヒューズ氏が、そんな細かい理屈を言ってはいけない。日本もいい気持で、会議に参加しようといってやって来るのに、二半だの二・七だのというのは、それは現状に即した理屈かもしれないが、大局からいって、政治上はなはだ面白くない。これは四捨五入して、五・五・三で行こうと強く主張したので、海軍側もやむを得ず、それに従った。
そしてこれで行けば、日本の海軍もアメリカの好意を喜ぶだろうと思った。
ところがいざとなると、日本海軍は米国主張の比率案に憤慨した。とにかく日本の利益を計った提案が、日本の恨みを買うようになろうとは、実に意外であった。

“第二は、太平洋の防備制限の問題、これには初めからかなり反対があった。
しかしヒューズ氏は、加藤全権の熱意に動かされて、首脳部の若干に相談しただけで、急いで承諾してしまった。
ところでその案が公表されると、アメリカ海軍部内に猛烈な反対が起った。今でも機会あるごとに、アメリカに取ってあんな不利な制限はない。あの条約はなるべく早く廃棄すべきだという議論がある。
それでヒューズ氏自身も、こんなに反対があるとは、自分も予知しなかったと言ったそうである。
しかし要するに、こういう風に、アメリカの海軍にも不満があり、日本の海軍にも不満があるということは、結局この条約が公平であったという結論になるのではないか。双方都合のいいようなものは、とても出来るものではないと、しんみり小ルーズベルトは話していた。”

軍縮会議後に分裂した海軍

日本は軍艦建造に、国家予算の1/3を使っていた。 軍縮が懸案となっていた。 大正11(1922)年のワシントン軍縮会議、昭和5(1930) 年のロンドン軍縮会議から太平洋戦争開戦への道のりで、海軍部内で激しい派閥抗争が展開される。堀悌吉は随員として、ワシントン軍縮会議では加藤友三郎全権(海相・大将)を補佐した…

 軍務局長だった堀悌吉は、英米に対しては不戦協調が望ましいという意見を持ち、 会議を成立させるべきという立場で次官の山梨勝之進を補佐した(条約派)。
 結局は日米の妥協が成立…

ロンドン海軍軍縮条約に調印した。
 この条約は海軍内部に大きな亀裂を生んだ。 艦隊派が台頭する海軍内で堀の立場は弱くなり、海軍中央から遠ざけられることになった

軍縮とそれへの不満

採用者(破線) も軍縮ムードにあった1910年代後半から20年代 半ばまでは陸士志願者は2,000名程度で推移

大正15年・昭和元年である。昭和に入って三度も大命降下(天皇から組閣を命令される)のあった宇垣一成(うがきかずしげ)が陸軍大臣で行ったのはいわゆる「宇垣軍縮」と言われる軍人の大量解雇だった。人件費を減らし兵器を近代化するのが本心だったようだ。日米開戦前の「アメリカ憎し」と同じで、世相は軍縮ムードだった。関東大震災にも見舞われて、大日本帝国と云いながら国の経済が下り坂だったからかも知れない。宇垣軍縮の恨みは、軍部に根強く敗戦まで付きまとう。

大正時代から昭和初期「原敬」「浜口雄幸」「犬養毅」「高橋是清」「斎藤実」の5人のその時の現職、或いは元総理大臣が暗殺されて命を落とす。更に軍部に拒否されて総理大臣になれなかったのが宇垣一成、昭和10年、暗殺された永田鉄山も陸軍では、世界を見渡せる優れた軍人であり、共通するのは“軍縮”である。どの昭和史の書だか忘れたが、この軍縮で軍人の仕事を奪われて失業したことが軍部の底流にあった。その不満を吸収したのが“統帥権干犯問題”である。

右翼と国民が軍縮に対し怒った

外交面では、ワシントンとロンドンの軍縮会議への参加などで英米と協調すれば「親英米派」と罵られ、中国の「反日」が日本を脅かしている、と宣伝されている中で中国とトラブルを回避しようとすれば「親中派」と罵られる状況が出てきます。幣原喜重郎のように米国の外交官から本で褒められただけで右翼と軍人から脅迫状がたっぷりと届き、家には落書きされ、怪しい暗殺者が周辺をうろつくのです。

当時の大日本帝国は財政破綻

“日本は諸事情が建艦競争を不可避とするような情勢にまで推移することを許すわけはあるまいと思う。
1935年‐1936年の予算は2,193,414,289円、その中約47パーセントが陸海軍費。概算せられたる1936年の国債は9,880,000,000円、これは内閣統計局が1930年の国家収入を計算した額、即ち10,635,000,000円とほとんど匹敵する。
しかるに満州での経費は莫大なものであり、国民はすでに重税を課せられ、多くの社会層が極度に救済資金を必要とする現状にある日本が、どうしたら英米両国と同じ海軍比率を維持する計画に乗り出し切るか、これは見当がつかない。”

“第一次世界大戦中、わが国の国際収支は空前の受取勘定超過を示し、おかげで政府及び日本銀行の所有正貨(対外債権を含む)は激増し、大正3年末わずかに3億4千万円であったのが、大正8年末に20億円をこえるにいたった。
ところが戦争がすむとともに、国際収支は再び逆転して、累年著しき支払超過となり、大正11年末の政府及び日銀の正貨所有高は18億3千万円に減じた。もちろん民間所有の正貨はこの間に全く底を払ったと思われる。
そこに大正12年の地震は起り、国際収支はいっそう悪化した。商品貿易は、大正12年と13年とで約13億5千万円に上る入超を示した。
もしこれを前記した政府及び日銀所有の正貨で決算したとすれば、大正11年末の正貨18億3千万円は、半分以下の9億円足らずに減じたわけで、その影響は容易ならざるものがあったろう。
すでに外国為替はこの事情を反映し、大正12年に49ドル(100円につき)を維持した対米相場が、13年の10月には39ドル半にまで低落した。”

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