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ルーマニア革命(1989年)で倒された独裁者チャウシェスクの銃殺

ルーマニアは、1960年代から1980年代にかけてチャウシェスクの独裁体制にありました。旧ソ連の中にありながら、西側諸国との関係を強めたルーマニアは、チャウシェスク一族が支配する国となっていました。ルーマニア革命でチャウシェスクが処刑されて革命が終了しました。

更新日: 2018年08月20日

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misukiruさん

ルーマニアの独裁者だったチャウシェスク

ルーマニアは、1960年代から1980年代にかけてチャウシェスクの独裁体制にありました。

1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の頂点に立つ独裁的権力者として君臨した。

独裁者仲間の昭和天皇とチャウシェスク

独裁者どおしは、こうして横で交流するものです。そして、独裁を強化しようとします。日本の独裁者と、ルーマニアの独裁者が繋がっていました。

ルーマニアの独裁者であるチャウシェスクは、北朝鮮も訪問しています。

チャウシェスクの諜報機関は外国の諜報機関によって逆に侵入を受けるようになり、チャウシェスクによる支配は徐々に弱まっていった。

西側の融資による経済破綻

チャウシェスクは経済開発のために西側から130億ドル以上の融資を受けたが、この融資が最終的にルーマニアの国家財政を破綻させた。

1980年代、チャウシェスクは対外債務返済のため、あらゆる農産物や工業品の大量輸出を行い、国内では食糧の配給制が実施された。

ルーマニア革命

1989年12月21日、首都ブカレストの党広場で開かれた官製集会が一転、このことを糾弾する集会になると、国民の自由獲得への反政府デモや暴動が全国各地で起こった。

公開処刑になったチャウシェスク

1989年12月24日に起きたルーマニア革命により、チャウシェスク夫妻は銃殺処刑された。

12月25日、救国戦線はチャウシェスク夫妻を、60,000人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、形だけの軍事裁判で即刻銃殺刑の判決を下しその場で殺害

裁判はチャウシャスク夫妻のみを映すという方法が取られている。裁判長も検事も弁護士も映さないのは、報復を恐れているためである。

1932年に非合法組織であったルーマニア共産党に入党し、1933年に逮捕される。1936年に「反ファシスト」活動の罪によりドフタナ刑務所に投獄されるなどしています。

醜かった息子の横暴の犠牲者

1980年のモスクワオリンピックでも2個の金メダルを獲得したが、独裁者の息子から愛人になる事を強要された。純白のレオタードが似合う可憐な容姿や見事な技が観衆を魅了し、「白い妖精」と呼ばれました。ルーマニアで身も心もボロボロになったコマネチは、命からがらオーストリア経由でアメリカへと亡命

ニクが車を乗り回す時はセキュリティが張り付き、大通りには10mおきに警察官が配備された。

大統領の次男ニク・チャウシェスクが一方的に愛人関係を持とうとするのを拒むこともできず、そのことに堪えきれなくなったためという報道もなされた。

国民的ヒロインは、独裁者の息子から毎晩のように夜の街へ付き合うように求められ、愛人関係となることを強いられた。

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