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意外と知らないクルマ誕生の19世紀

自動車が誕生したのは19世紀のことだった。運搬目的の輸送機から始まり、人を乗せるようになり、社会の交通体系に組み込まれていくまでにおおよそ100年の時間を要している。ここには技術の話だけでなく、それを受け入れていく人の物語も豊富に含まれている(各リンク先参照)

更新日: 2016年12月29日

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この記事は私がまとめました

▼馬車の歴史は古いようでいて、実はかなり後のことでした

文明が興り、人が集まり、市場が開かれるようになると、一度に大量の農作物を運ぶための手段が必要になった。このとき用いられたのがソリやコロ。はじめて車輪の付いた荷車というものを発明したのは、紀元前3000年ごろのメソポタミア文明であったと言われる。また、馬やロバ、そして牛などに引かせる荷車が、紀元前2500年ごろのシュメール文明で用いられていた。その後、帆走車や蒸気自動車が登場し、近代へとつながっていく

自動車の原型は馬車。その歴史は古く、最も初期のものとしては紀元前4000年頃のメソポタミア。ヨーロッパで最初に馬車が栄えたのは古代ギリシャで、戦車に用いた二輪の馬車が中心。荷物の運搬や旅行にも馬車が用いられた。やがて14世紀に入り、馬車に革命が起きる。それまでの馬車は、車体が直接車軸の上に載っているため、道路の凹凸がそのまま振動となって伝わっていた。そこで、車体をロープや鎖で吊るし、地面の振動が直接伝わらないようにした懸架装置、つまりサスペンションが発明され、その乗り心地は格段に改善された

蒸気機関の開発がもっとも早かったイギリスでは、1827年頃から、蒸気で動く「自動車」が運行している。イギリスの発明家ゴールズワージー・ガーニーやウォルター・ハンコックが蒸気機関を搭載したバス(乗り合いタクシー)を製作し、実用化したのだ。しかし、蒸気がもたらす騒音や煙、そして爆発事故などが発生し、大きな社会問題となってしまった。民主主義的な社会が根付くイギリスでは、まもなく議会が規制強化に乗り出し、イギリスでの自動車開発にブレーキをかけるようになる

イギリス人で元軍医のゴールズワージー・ガーニー卿は、蒸気で動く“スチームコーチ”と呼ばれる小型バスを開発して歴史に名をとどめている。この車両は、当初考えたものより大型になってしまったので、個人用途でなく営業運転しようと試みた。それは、1829年のことであった。この年は、イギリスで石炭を運ぶ鉄道が誕生した年からわずか4年後で、人を運ぶ鉄道は開業されていない時代であった

人を乗せる鉄道すら登場していない時代に、車を誕生させたガーニー卿には恐れ入る。何しろ、レールがない自動車は、運転手のプロの運転が求められる。しかも道路は必ずしも整備されていない。案の定、蒸気バスは技術的にも営業的にも苦労した。騒音や煙の他、道路が痛んだり、人身事故が起こったりと、社会にとってあまりにも負担に大きな乗り物となってしまったのだ

16~17世紀以降になると、ヨーロッパで馬車の活用が本格化するようになった。前輪の車軸を左右に回転させる「枢軸」が発明され、鉄で作られた車輪(タイヤ)も使用された。また、馬車の振動を緩和するための鋼鉄の「スプリング」も導入された。これにブレーキが加わり、運転が楽に、乗り心地も改善された。興味深いのは、この馬車の時代に、各種サービスも成立していたことだ。ロンドンでは辻馬車(タクシー)、そして長距離の郵便馬車も登場。パリでは乗合馬車(都市バス)、さらに貸しバス(高級ハイヤ)も出現した。これと相まって、道路整備が国家の建設事業として重視されるようにもなった

1882年(明治15年)6月25日、日本橋-新橋間に東京馬車鉄道が開業した。これは軌道上を走る馬車のことだ。客車は24~27人乗りで馬2頭が牽引、平均時速は8キロほど。西欧では蒸気鉄道の実用化以前に最初の鉄道として現れていたが、日本では運賃の安さからしばらく使われた(福島・群馬・栃木・埼玉・山梨・静岡・福岡・佐賀)。明治末期に電車が敷設されてくると、馬車鉄道は衰退してしまった。

▼馬車から自動車への変革は、相当な摩擦がありました

技術革新は社会を変え、旧産業の就業者の職を危うくする。イラストの広告は、「馬をやめてクルマにすれば、(御者も不要になり)節約でき、面倒もなくなる」と宣伝している。古くは、英国で蒸気自動車が開発された当時、最高速度を極めて低く抑え、事故防止を口実に旗を振る先導者を走らせることを義務付けた、悪法として名高い「赤旗法」を制定させて、その普及を妨げたのは、仕事を奪われることを恐れた馬車業者だった。赤旗法は19世紀末まで存続し、鉄道の発展を先導した英国で、自動車産業の発達がヨーロッパ大陸に大きく遅れをとる原因となった

初期の自動車が「馬なし馬車」と呼ばれた。エンジンと伝達装置を除けば、(馬車の)ほとんどの構成部品は自動車に継承されている

1886年、ダイムラーが製作した四輪車は馬車職人のところで購入したあり合わせの馬車に、ガソリン機関をのせたものだった。ゆえに、馬車にあった構造はそのまま使われていた。これは使用者の慣れの問題もあったろうが、何より、頻繁な故障の際に馬を取り付けることが必要だった。現在の自動車のボディーには、馬車の名前が結構残っている。たとえば、「クーペ」「フェートン」「カブリオーレ」などである。しかし、自動車の普及とともに、自動車のカタチが馬車のそれから乖離していくことになる

自動車の発明に至るには、自転車の存在も見逃せない。今から200年以上前に、ドイツのドライス伯爵が、自身の所有する森林を見回るために発明したハンドルつきの二輪の乗り物が、自転車の祖先と言われている。乗り手が両足で地面を蹴って前進するという仕組みだ。その後、フランスでペダルが発明され、さらにスコットランドでは空気入りタイヤをつけた自転車も登場した。これが、後のダンロップ・タイヤになった。そして自転車本体では、ドイツのオペル、フランスのプジョー、イギリスのローバなどが、自動車メーカーへと転身していく

▼モノを運ぶ、つまり輸送機関としての必要性が自動車開発を後押ししました

蒸気自動車の最初の発明とされているのが、大砲牽引車だった。写真は、フランス陸軍砲兵部隊のためにルイ15世の陸軍大臣であった宰相ショワズールがキュニョーに製作させた三輪蒸気自動車の試作車。馬の代わりに蒸気機関を使い、大砲の牽引に使えるかどうか検討するための試作だった。前輪の前の大きな球形の物体が、ボイラーで、その後ろに配置されていたのが二気筒の蒸気機関だった。世界初の自動車は大砲という重量物を運搬するためのトラックだった

まじかよ~という蒸気自動車の巨大さ。言葉が分からないのは残念

エバンスはオートメーション、材料処理、蒸気力分野の先駆者で、 初期の米国において、最も多産で影響力があった発明家の一人だ。蒸気圧縮冷凍機や製粉工場の自動ふるい機などのデザインを手掛け、そして蒸気馬車の構想にも着手した。これがのちの自動車につながるが、彼の構想は水陸両用車にまで飛躍した。それは彼があくまで商用利用を前提にし、小麦粉の運搬での儲けを考え方からである。ゆえに、特許を申請し、訴訟も起こしと、米国の産業界で有名となった。蒸気に関しては、米国エンジンの開発をした人物でもある

1885年、カール・ベンツは単気筒四ストロークのエンジンを載せた世界初のガソリン自動車「モートルヴァーゲン号」を完成させた。当時のドイツは、主流だった蒸気機関の大型化競争についていくことができず、また都市に上下水道が完備していなかったこともあり、開発の方向性を小型内燃機関に振り向けていた。このような背景で誕生したのがカール・ベンツのガソリン車だった。しかし、当初は、蒸気エンジン車同様、「路上走行に適していない。将来性はない。」と書かれていたという

カール・ベンツが内燃機関(ガソリンエンジン)を動力源とする三輪の自動車を開発。これは何も彼が初めての開発者ではなかった。当時のカールは開発者としての夢を見ながら、この頃洗濯の染み抜きに使われていたガソリンによる爆発事故がよく起きていたことに着目した。妻ベルタの助言にも助けられ、試行錯誤を繰り返した。そして現在のプラグによる電気点火方式の源流となる電池を電源にした電池ブザー方式を開発。1886年1月29日、カールの3輪自動車の特許が権利化され、世界初の自動車の発明の名誉を手に入れた

(絵:「じどうしゃのはつめい」小西聖一/構成・文)

ダイムラーエンジンを2輪車に搭載したものが、1885年に完成した世界初のオートバイベンツである。カールベンツの3輪自動車の公開走行に遅れること1年、1887年(’88年かも)には世界初の4輪自動車「モトール・クッチェ」も完成させた。車体やシャシーは馬車を改造したと言われるが、それが「妻への誕生日プレゼント」といって馬車を注文したというエピソードにもなっている。自動車としての完成度はベンツの方が高かった。その後、ダイムラーらは出力アップのために1889年、世界初のV型2気筒エンジンを開発、多気筒化の道を切り開く。他の乗り物への応用も積極的だった

▼いよいよ人が乗る(人を運ぶ)のですが、そう簡単にはいきませんでした

出典gazoo.com

図はゴールズワージー・ガーニーの蒸気自動車。ガーニーは、蒸気自動車の研究を始め、1825年に「普通の道や線路で、乗客と荷物を載せて馬の助けなしに十分な速度で前進する馬車」の特許を取得している。その2年後に、18人乗りの乗り合い乗用車を製作した。他方、ウォルター・ハンコックが、1829年に10人乗りの蒸気バスを製作し、ロンドンとストラットフォードの間で定期運行を開始するに至った。1833年になると、ロンドンで世界初の都市バスの営業も始めた

出典4knn.tv

1865年のイギリス。ガソリン車が普及する前の蒸気機関の自動車を公道で走行するためには、安全のために、郊外では「時速6km/h」、市街地では「時速3km/h」のスピード制限とする「赤旗法」があった。当時の自動車は、運転手、機関員、赤い旗を持って車両の前方を歩く赤旗者の3名で運用することを規定とされていた。そして、騎手や馬に自動車の接近を予告しなければならなかった。つまり、自動車は最低3人いなければ、公道を走行することができなかったのである。これでイギリスにおける自動車の進化は何年も遅れてしまった

▼一時、絶対だと思われた蒸気機関が、途中でコケてしまいます

画像は、1867年のパリ万博で、会場への客を乗せた蒸気自動車。運転手とボイラーマンが乗り、煙突が付き出た姿は、自動車というより蒸気機関車を想像させる。イギリスが赤旗法の影響で足踏みしている間に、フランスやアメリカが蒸気自動車を発達させる。アメリカでは、エヴァンズ(O. Evans)が、1873年に蒸気自動車の父と呼ばれるボレ(A. Bollee)が登場し、その進化を担った。そして内燃機関が開発されるのを待って、いよいよ本当の車(ガソリン車)が誕生する

1876年のフィラデルフィア万博では、巨大な蒸気機関と同じところで、ガスエンジンも展示されていた。当時の主流だった蒸気機関は、大型で移動用には不向き、ボイラー爆発事故が多発、熱効率が低いなど欠点が目立ち始めた。そこで交通輸送機には不都合も多かった。他方、ガソリンエンジンは、熱効率に優れ、1876年には、オットーが吸入・圧縮・膨張・排気の「4サイクル」のガスエンジンを開発させた

蒸気機関の構成要素のうちもっともかさばる部分(火室とボイラー)を、小さな気筒(シリンダー)に置き換えるという発想

当時、蒸留・精製の技術が未発達だった石油が、1859年に米国でも発見された。それで、これまでの鯨油を一気に置き換えた。さらに、気化しやすいガソリンの用途を、クルマに見出したことで状況は一変した。可能になったのは気化器の部分の発明だった。オットーの考案した四サイクルエンジンをもとに、ダイムラーが四輪自動車を、ベンツが三輪車を完成させた。二人はいずれもドイツ人だが、互いの面識はなかった。そして1926年、両人の残した会社が合併するに至るのだ

出典goin.jp

燃やす場所としての「ボイラー」と動力を発生させる「タービン」や「ピストン」とが全く違う場所、外側にあるものを外燃機関と呼ぶ。燃焼室からダイレクトにタービンやピストンに伝えるものを内燃機関と呼ぶ。イギリス人のジェームズ・ワットは、蒸気を冷やすために直接、水を吹き込むのではなく、「復水器」という仕組みを使って冷却することを思いつく。しかもワットはこの仕組みを改良し、負圧だけではなく、今まで誰もできなかった蒸気の力を直接使うことも可能とした。しかし、蒸気を作り出せば、水はどんどん失われてしまう。その重さや大きさも足を引っ張った

ワットはコンデンサー(復水器)と呼ばれる別室を作り、そこにシリンダからの蒸気を導入して冷やす仕組みを作った。この新しい蒸気機関は、従来の「大気圧と真空状態のシリンダ内部との圧力差」ではなく、「蒸気圧と真空状態のシリンダ内部との圧力差」でピストンを駆動させている。これにより、小型化に成功し、従来の蒸気機関と比較した場合には燃料の消費がおよそ1/4程度まで低減した。しかし、ルノアールが蒸気の代わりにガスで動く熱機関を実用化した。ボイラーを必要としないこの仕組みが蒸気機関を代替していくようになる

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