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【閲覧注意】戦争にまつわる虐殺事件まとめ【歴史・悲惨・残酷】

歴史に残る虐殺事件をまとめました。説明内にグロ要素を含む画像が含まれますので、苦手な方は閲覧をお控え下さい。

更新日: 2019年02月06日

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illdarkさん

バタクの虐殺(ブルガリア)

バタクの虐殺は、1876年にオスマン帝国領であったブルガリアのバタクで、オスマン帝国の非正規兵バシ・ボズクによって引き起こされた虐殺事件である

バシ・ボスク=bashi-bozoukと書きます。
オスマン帝国の残虐な非正規兵の軍団名です。

バタクは反オスマン帝国の反乱であった4月蜂起の中心的な役割を担った。蜂起の数週間後、町では独立が宣言された。革命委員会による町の統治は9日間におよんだ。バタクの反乱は1876年4月30日にトルコ人の当局に報告された。アフメト・アガ・バルン(Ahmet Aga Barun)に率いられ、非正規兵・バシ・ボズクを主体とする8千人のオスマン帝国の兵士が町を包囲した。最初の戦闘の後、バタクの市民はアフメト・アガとの交渉を決定した。アフメト・アガは、バタクの武装解除を条件として軍を引き上げることを約束した。反乱者たちが武器を差し出すと、バシ・ボズクは自衛の術を失ったバタクの市民を攻撃した。犠牲者の多くは斬首された

ハミディイェ虐殺(アナトリア)

オスマン帝国は東部のアルメニア人らがロシアに味方することを危惧しており、ハミディイェはアルメニア人に対する牽制や警戒を行い、その弾圧に乗り出すこととなる。特に1894年から1896年にかけてはオスマン帝国とアルメニア人の間で暴力の応酬が起こり、ハミディイェは多数のアルメニア人を虐殺して西欧諸国からの非難を浴びた。

ハミディイェ(ハミディエ、Hamidiye)は、オスマン帝国がアナトリア東部の治安維持のためにクルド人、トルコ人、トルクメン人、ヨリュク人などの遊牧民・半遊牧民を集めて結成した非正規の騎兵部隊。ハミディイェという名は、1890年にこの部隊を設立したスルタン・アブデュルハミト2世にちなむ。

カティンの森事件(ポーランド)

カティンの森事件(カティンのもりじけん、ポーランド語: zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソ連のグニェズドヴォ近郊の森で約22,000人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者が内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。

第二次世界大戦開始と同時に始まったソ連軍のポーランド侵攻に際し、1940年3月~4月にソ連内務人民委員部(KGBの前身)が、ポーランド将兵数千を虐殺、カチンの森に埋めたとされる事件。43年4月13日ドイツのベルリン放送が、約3000の遺体を発見、ソ連(ボリシェビキ)の犯行と発表、ソ連は直ちに反論、ナチスが自らの犯行をかくし、反ソ宣伝に利用したと主張した。亡命ポーランド政府の調査依頼にはソ連は応えず、うやむやにされ、戦後親ソ的政府のもとでタブーとされた。ようやく1987年、ゴルバチョフ政権のもとで真相究明が始まり、90年4月ソ連が自国の犯行を認め、ポーランド政府に対し、謝罪した。

囚人大量処刑(ソ連)

NKVD=内務人民委員部(のちのKGB)がこの虐殺を引き起こしました。

第二次世界大戦中、NKVDによるヨーロッパ東部、主にポーランド、バルト諸国、ルーマニア、ウクライナ等における囚人の大量処刑が行われている。これは1941年、ドイツ軍がバルバロッサ作戦を発動してソ連領内に侵入後、赤軍が撤退する際に行ったものである。

バビ・ヤール ユダヤ人虐殺(ウクライナ)

キエフ近くの峡谷でわずか1か月の間に3万3700人のユダヤ人が殺害されたバビ・ヤール大虐殺。

1941年、旧ソ連当局者をキエフ(Kiev)から追放したナチスは同市を占領し、移住を口実に市内に残ったユダヤ人全員を集めた。

228事件(台湾)

1945年8月、日本の敗戦により台湾の植民地支配は終焉を迎えた。多くの台湾人は「祖国」への復帰を大歓迎したものの、来台した国民党政権の失政や腐敗のため、当初の期待は瞬く間に失望へと変わった。鬱積した不満は1947年2月28日に台湾全土で抗議行動として現出したが、残酷なまでの鎮圧作戦でおびただしい犠牲者を出す悲劇を招いてしまった。

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