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(摘読的)西部邁名言集

西部先生の著書の中から、印象的な言葉をピックアップしました。哲学が苦手な私には、読んでも珍紛漢紛な箇所が多く、とてもその思想の全体を理解したという自信はないのですが、どうしても忘れられない(忘れたくない)文があり、本稿はその一部の抜粋です。解釈が間違っている可能性を承知の上で、私見を付します。

更新日: 2016年01月26日

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il0veb00ksさん

西部 邁(にしべ すすむ、1939年(昭和14年)3月15日- )は、日本の評論家、思想家、雑誌『表現者』顧問、元東京大学教養学部教授。

◉熱狂を避ける

保守思想が何を意味するか、その定義は様々であろうが、今、仮に保守思想を体現した人物が眼前に現れたと想定してみると、その人物はまぎれもなく大人の風貌をもっていると見当がつく。オトナの定義もこれまた様々であろうが、さしあたり、物事に熱狂するのを避けること、それが大人たることの第一条件だといえよう。

出典西部邁「日本の保守思想」

先生が私に与えてくれた印象を一言で表現するなら、明朗な節度、という形容になろうかと思う。その活気あふれる精神活動はたえず中庸を求めて、一度たりともエクセントリシティにはしるということがなかった。熱狂に溺れるのを避けることにおいて熱狂的であるほかないという保守主義の逆説を、先生は生き抜いているだとみうけられた。

出典西部邁「ニヒリズムを超えて」

※「先生」とは、ギリシャ哲学者の田中美知太郎。

【愚見】
大人は奇をてらう愚かさを知り、平凡であることを厭わない。

◉信頼を取り戻す旅

保守思想は、社会の安定性を根本から揺るがしかねない近代主義という野蛮な思想に抗して、信頼の要素を社会の中枢において回復させようとしてきた。その意味で保守思想は信頼を探し求める精神の旅なのであった。たしかに人々の信頼関係を具現するものとしての慣習は「儀式」の体系にすぎないかもしれない。しかし人間を人間たらしめている言語そのものが、具体的表現においては、儀式たらざるをえないのである。儀式の表し方において各人の自由が発揮されはするであろうが、人間は儀式から自由になることはできない。

出典西部邁「保守思想のための39章」

出典ganref.jp

【愚見】
社会の安定は、そこに「信頼」があるかどうかに左右される。
そして「信頼」は、自由や平等の追求からは見いだされない。

◉言葉の力を生かしきる

現場の経験を共有しなければ通じないというのであれば、そもそも言葉というものが空しくなる。追体験・想像体験も含めながら、言葉を何とか動員してフィクションとしての共有体験を創りだす、それが言語活動の目的であろう。

出典西部邁「死生論」

【愚見】
「言葉では伝わらないことがある」というもっともらしい口上に逃げてはいけない。
まずは自分の拙い言葉を磨くこと。

◉自己への懐疑

人間は、自分の精神を健全に発達させるためには、自分の厄介な獣性や狂気にたいして原罪めいた意識をもっていた方がよい。それが精神活動の根本条件だといわぬまでも、自分自身を一個のプロブレム(問題)ととらえて自己に懐疑を差し向けることは、精神にたいする調味料であり防腐剤である。人間が一切の苦痛から解放されて快感に打ち震えつづければ、そのとき精神の発達は停止するであろう。

出典西部邁「人間論」

【愚見】
自分を疑うのは難しい。何かそのための手段が必要だ。

そしてまったくの本気でいうと、私が自分に少々の誇りをもちうる究極の論拠はというと、自分の至らなさを知っているということ、そしてその至らなさを補ってくれる知恵が伝統のうちに秘められていると知っているという点にある次第だ。

出典西部邁「日本の保守思想」

(略)異性と一緒に暮らすこと、それは自分の精神が不完全であることを認めるという至極真っ当な判断に立つことなのである。

出典西部邁「人間論」

男女はともに暮らすことにより、男は女の、女は男の気持ちを分かるよう努力しなければならない。男女関係の維持は、一人一人の不完全さを補う仕組みの一つなのだ。

私たち不完全な代物にすぎぬものは、自己の欠陥を何物かによって制限されなければならない。逆にいうと、自分が制限を受けるにふさわしい不完全な存在だと知るのが人間の賢明であるための第一歩だということである。そして、そういう自己を疑うことを知っているという意味で賢明な人々のなす「多数参加による多数決」ならば、デモクラシーもまあまあ真っ当な線を歩むであろう。しかし、自己の欲求や意見や行動が原理的に「無制限の権力」となるべきだと思うような人々によるデモクラシーは、ほぼかならず、衆愚政治へと転落するのである。

出典西部邁「マスメディアを撃て」

◉家族の不思議と偉大さ

実際のところ家庭は、ある意味で、非日常的な空間なのだ。同じ男女の組み合わせで性交渉という(それ自体としては動物的な営みが)日常的に行われているのがそもそも異様である。また、その異形の振る舞いに(夫婦の名の下に)文化の形容が冠されているのがさらに非日常的である。そこには出産や育児という(合理的には処理しきれるはずのない)難業が待ち構えており、しかもその難業が夫婦の生き甲斐とされている。そしてそのうち、三十歳の世代の隔たりを超えた親子関係が、ごく当たり前のこととして、小さな空間のなかで繰り広げられる。

出典西部邁「保守思想のための39章」

章題は「家族の神聖」。家族を肯定する文脈にある。

(略)異性のみならず、上下に三十歳ほども異なる異世代とも付き合いながら、その反応の総体に家族という形を与えてまとめ上げていることそれ自体、優に一個の奇蹟である。

出典西部邁「人間論」

家族とは子供をつくった夫婦のことである。そのつくり方は養子という形をとっても構わないが、ともかく、子供の養育という作業が伴わなければ家族とはいえない。子供のいない夫婦は男女関係の固定化ということにすぎない。

出典西部邁「人間論」

◉世代間の断絶

人間は、自分よりも年をとった友人・知人と自分よりも若い友人・知人の両方を持っているとき、自分の言語活動を通じて過去から何を受け継ぎ、未来に何を受け渡すことができるのかをリアルに感じたり知ったりすることができる。そのことによって伝統の不滅性を、生の営みのなかで確認することができる。

出典西部邁「死生論」

ひょっとして、いま人びとが死の問題をとりわけて議論しなければならなくなっているのは、たった一つの理由によるのかもしれない。つまり、世代間交流の杜絶ということである。自分たちの世代の生き方を伝統として残そうにも、その引き渡し相手がいないという老人たちの孤独、それが死を陰惨なものしているのではないか。上および下の世代との交流を可能なかぎり、無理のない形で、継続するという生活の知恵が失われたーーそれが知恵であるのは、伝統を確認することによって死の恐怖を緩和することができるからである。

出典西部邁「死生論」

【愚見】
老いた時分、若者と語り合う機会に恵まれたにも関わらず、彼らに伝え残すべき何ほどの経験も知識も持たないとすれば、さぞみじめなことだろう。

◉切っても切れぬ自由と規制

自由と強制は表層では相互背反的であることが多いだろうとはいうものの、深層では相互依存的である。規制のない自由はありえないが、自由を許さない規制もありはしないのだ。こんなことは、ちょっと将棋でもさしてみればわかることだ。

出典西部邁「日本の保守思想」

【愚見】
将棋の駒の動きは決まっているにも関わらず、展開は毎回ちがう。
スポーツもまた然り。むしろ「手が使えない」という厳しい規制があるからこそ、サッカーの素晴らしいプレイは生まれるのではないか。

不自由と不幸は、イコールではないということだ。

◉伝統があるから「私」がある

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