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江戸三大蕎麦を巡る【砂場・更科・藪】

江戸時代からのソバ屋の老舗ブランドとして名高い「砂場」「更科」「藪」の代表店をまとめました。

更新日: 2015年12月02日

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この記事は私がまとめました

KURISEKIHANさん

江戸蕎麦の御三家といえば「砂場」「更科」「藪」!

【砂場】

「砂場」ちょっと変わった名前ですが、大坂城築城の際に砂置き場で営業していたことに由来します。

1583年から始まった大坂城の築城。
豊臣秀吉が、工事に使う砂を全国から集め、新町の一角を「砂の置き場所」にしたことから、この辺りは別名「砂場」と呼ばれたそうです。

江戸時代中期の書物によると、新町には「和泉屋」と「津国屋」、2軒の蕎麦を出す麺類処があったと書かれています。

この2軒について、場所名で呼ぶことが定着し、「す奈バ」(砂場)の屋号が生まれたものと考えられている。
現在使われている蕎麦屋の屋号としては最も古い。
大阪の屋号がどのようにして江戸に伝わったかは定かではないが1700年台半ばの書物に江戸で「砂場」名称が見られる。

当店は天保10年にこの地で初代大坂屋長吉が創業し現在に至っております。大名屋敷と寺院に囲まれた地ですので創業時より1番粉の細打ちそばとうす味のつゆを特徴として参りました。吟味された材料のつゆと国内の産地にこだわったそばをご賞味下さい。

砂場のつゆはあまり辛くなくダシがきいているのが特徴。

http://r.gnavi.co.jp/g212300/
江戸時代初期から存在したと言われる「糀町七丁目砂場」から幕末に暖簾分け。
1869年(明治2年)より現地。

大阪屋砂場の系譜より、暖簾を得て、初代は幕末、高名輪・魚藍坂に独立。後に、明治二年日本橋の現在地に移転し、店を構える。

初代の女将ヨソは、徳川家康と縁の深い武家、刈谷家の娘で、父は鍋島半の剣術指南役でした。
 東京の砂場本家とも言える糀町七丁目砂場に養女として預けられ、明治五年、虎ノ門大坂屋砂場として現在の地に店を構えました。

虎ノ門砂場のかつての贔屓(ひいき)客には、江戸城無血開城の立役者の1人である山岡鐡舟や、高橋泥舟、勝海舟、いわゆる「幕末の三舟」の名前が挙がります。

店舗は1954年(昭和29年)建築で荒川区の文化財。
下町のレトロな商店街「ジョイフル三ノ輪」の中。

江戸時代に記録がある「糀町七丁目砂場藤吉」が移転して存続したもの。
糀町七丁目砂場藤吉からは、幕末に室町砂場(旧本石町砂場)・明治初期に虎ノ門砂場(琴平町砂場)が分岐している。

建物は古くて味が有るがお店自体は普通の町の蕎麦屋さん。

【更科】

寛政元年(1789年)代々そば打ち上手としてしられた信州の反物商・布屋太兵衛は領主・保科兵部少輔の助言によりそば屋に転向し、港区麻布の地に「信州更科蕎麦処」として看板を揚げました。
江戸城や大名家に出入を許され、そば好きの江戸っ子にも親しまれ、通称「更科」と呼ばれる様になりました。

「更科」とは、信州そばの集散地だった更級の「級」の音に保科家から許された「科」の字を当てたものと伝えられる。

これがいつ頃からのものかは明らかになっていないが、1750年頃にはすでに存在していた模様。更科の特徴として打ち出されたのは江戸時代末期から明治時代のことと考えられている。

【藪】

かんだやぶそばの創業は1880年。本郷団子坂にあり、竹藪が多かったことから通称“藪蕎麦(やぶそば)”と呼ばれていた「蔦谷」の支店として、連雀町に店を構えたことが始まりです。
その後、団子坂本店の廃業を受けて、本店の看板を受け継ぎ、今に至っています。ちなみに1914年(大正3年)に「浅草並木藪」、1954年(昭和29年)にその浅草並木藪から分家した「池の端藪」と枝分かれ。この3軒は、“藪蕎麦御三家”と呼ばれたりもしています。

藪蕎麦の特徴は、醤油の味がつよい、塩からいそばつゆである。そのため必然的に「つゆをちょっとだけつけて食べる」という江戸風の蕎麦の食べ方となった。10代目金原亭馬生が落語『そば清』の枕で「死ぬ前に一度、つゆをたっぷりつけて蕎麦を食べたかった」と言って事切れる江戸っ子の話を用い有名となった。

注文が入ると「せいろう~いちまい~」と店内に口上が響き渡ります。

女将の口上もかんだやぶそば名物の一つ。

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