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戊辰戦争で無敗を誇った最強の軍団「庄内藩」まとめ

幕末は、新撰組や薩摩藩・土佐藩・長州藩の話題が多いですが、実は最強の軍隊は「庄内藩」でした。庄内藩の強さの秘密や、強さ自体をまとめました。

更新日: 2015年12月10日

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yuk999jpさん

庄内藩って?

第3代藩主・酒井忠勝(さかいただかつ)の時に入城

庄内鶴ヶ岡へは、第3代藩主・酒井忠勝(さかいただかつ)の時に入部し、それ以後、明治維新にいたるまで酒井氏が庄内を治める

3代、本間光丘の考え方として、徳は得なり、と言う考えの商法で、人が必要としてる物を与えればそれが帰ってくると言う考えを基に、無償で、社会事業、救済活動に力を入れ、飢饉に備えた、備荒もみ、20000万表を庄内藩に献上し、倉庫を建て籾を蓄えさせています。

庄内藩は会津藩と並ぶ佐幕派の双壁(そうへき)と謳われた。
混乱が続く日本国内治安を守るべく、庄内藩は江戸市中取締り役を勤めている。

薩摩藩ら過激派の取締りが主な仕事で、幕末の革命を目指す薩摩藩(過激派)は、国の重要施設の破壊、要人暗殺、放火、軍資金目的の強盗を多発させて、体制を混乱させ信頼を貶め、人心を撹乱させていた。

慶応3年(1867年)には新微組を加えた庄内藩は、松山、上山、前橋各藩の藩兵とともに江戸の薩摩屋敷を焼き討ちする。

江戸市中で反乱を起こす徒党を追うと薩摩屋敷に逃げ込むために、本拠である薩摩屋敷を攻撃した

最新の武器を揃えた庄内藩は、槍、刀、火縄銃中心の久保田藩(秋田藩)を圧倒!奥羽鎮撫総督府の兵力不足もあり連戦連勝を重ねます。

戊辰戦争での庄内藩の強さ

庄内藩は、新政府軍との戦いにおいて、最終的に約4500人の兵を動員したのですが、その内の約2200名が、実は農民や町民といった領民達によって組織された民兵でした。

東北の雄藩がつぎづきに負けていく中で、最後まで闘ったのは庄内藩である。また、最後の最後まで、敵に自らの領地内に足を踏み入れさせなかったこと

庄内軍は近代兵器を装備し、訓練された強力な軍隊であり、それに怒りに燃えた仙台藩兵が加わったので実に強かった

当時、戦いの場において、略奪は日常茶飯であった。ところが、庄内藩士たちは、決して略奪をしなかった。

敵側の死者をお寺に運び、自らお金を払って、供養をしてもらい、霊を慰めたとのこと

戊辰戦争では、明治政府に与した新庄藩、久保田藩領内へ侵攻

清川口では攻め入る明治政府軍を撃退。その後に新庄を落とし、内陸、沿岸から秋田へ攻め入った庄内軍は中老酒井玄蕃率いる二番大隊を中心に連戦連勝、明治政府軍を圧倒

東北の雄藩がつぎづきに負けていく中で、最後まで闘ったのは庄内藩である。

また、最後の最後まで、敵に自らの領地内に足を踏み入れさせなかった

最後は、会津藩の降伏などで勝ったまま降伏した

この最強の軍隊の司令官は、以外にもイケメン!!

戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と対戦。秋田藩、新庄藩らによる攻撃を防ぎ、連戦連勝した。しかし、同盟諸藩が次々と降伏する中、ほぼ無敗のまま降伏、謹慎を命じられる。

戊辰戦争において庄内藩二番大隊の約1千名を指揮し、秋田方面の戦いで連戦連勝の活躍を遂げ、新政府軍から「鬼玄蕃」と呼ばれ恐れられた名将。
当時、若干26歳です。

中国では三国時代から「破軍星に軍を向けると必ず負け、破軍星を背にして戦うと必ず勝つ」と言い伝えがあり『霊旗』と称したそうなので、それにあやかったようです。
戦場でこの旗を見たものは「鬼玄蕃がきた」と戦わずして戦意をなくしたという話が伝わっています

庄内藩の強さの秘密は?

致道館によって培われた教育の伝統は、人づくりの環境、教育を重んずる風土で、多くの人材を生み出してきています。また、その教育理念は、今日における教育の指針にもなりうるものとして、多くの有識者から高い評価を得ています。

庄内藩では、山形県酒田市の豪商本間氏の資金提供により最新の新式銃を大量に購入して軍備の増強をしていました

庄内軍はスペンサー銃を使っていた

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