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【上野戦争】谷根千界隈は幕末に戦場となった!

今から約150年前、この谷根千界隈では、彰義隊ら旧幕府軍と、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍が激しく戦った「上野戦争」が起こりました。今でも谷根千界隈には上野戦争の痕跡が残っています。

更新日: 2018年05月16日

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上野の山から谷中へ歩いていくと 本当に百二十年前、ここが戦場だったのかと不思議な気がする

主家への義によって上野の山へ立てこもった彰義隊の記憶は、明治維新以後しばらく新政府によって封印された

彼らは賊軍といわれ、朝敵と呼ばれ、子孫は人目を忍び、墓石にも彰義隊と刻めなかった

★ 上野戦争に至る経緯

慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸の上野寛永寺にて謹慎し、恭順の意を示しました。

徳川慶喜は、慶応4年(1868)2月12日から江戸城無血開城の4月11日まで、寛永寺の「葵の間」に蟄居謹慎しました。

これまで非公開だった「葵の間」も特別公開するようになりました(申込み要領↓)
http://kaneiji.jp/schedule2#1/

不満を抱いた抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは、徳川慶喜の警護を掲げて「彰義隊」を結成しました。当初は、江戸市内の警護に当たるなどしました。旧幕府ゆかりの者だけでなく、町人や博徒や侠客も参加し、彰義隊は千名を越える規模になりました。

写真は、彰義隊頭取の渋沢成一郎(左)と副頭取の天野八郎(右)

江戸城では主戦派と恭順派とが対立しましたが、慶応4年(1868)3月13日に新政府軍の大総督府参謀である薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟が会談し、徳川慶喜の水戸謹慎と江戸城の無血開城を決定して江戸総攻撃は回避されました。

徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺に集結して、輪王寺公現入道親王を擁立しました。彰義隊の新政府への敵対姿勢が改まらず、彰義隊隊士の手で新政府軍兵士への集団暴行殺害を繰り返しました。

明治新政府は関東の騒乱の原因の一つを彰義隊の存在と考え、彰義隊に解散命令を出しましたが、これに従うことなく上野付近で衝突を繰り返しました。

新政府は、慶応4年5月14日(1868年7月4日)上野山に立てこもる彰義隊に対し、総攻撃の断を下しました。長州藩の大村益次郎が指揮する新政府軍が彰義隊を討伐することとなりました。

大村益次郎は、薩摩・因州・肥後の各藩兵を湯島を経て黒門口に向かわせ、長州・大村・佐土原の各藩兵が団子坂から背面の谷中門を攻撃し、肥前・筑後・尾張・津・佐土原の砲隊は本郷台から砲撃するという攻撃態勢をとりました。

薩摩藩が嫌いな大村益次郎はもっとも激戦が予想される黒門口に薩摩兵を配置し、西郷隆盛が大村に「薩摩兵を皆殺しになさる気ですか。」と問うと、大村は「そうです。」とにべもなく答えたといいます。

★ 上野戦争の勃発!

黒門前で奮戦する彰義隊

土佐藩の「迅衝隊」は赤熊の被り物をして戦いました。

本郷台に据えられた肥前藩の当時最強のアームストロング砲の砲撃が上野山に向かって発射されました。

肥前藩が上野戦争で使用したアームストロング砲

雨と炎の中、寛永寺文殊楼で槍や刀で戦う様子を描いた錦絵。文殊楼もこの時の戦火で焼失しました。

【浮世絵の戦争画 7/1~7/26】月岡芳年「魁題百撰相 駒木根八郎兵衛」。寛永14年(1637)の島原の乱に参加した人物。しかしその姿は慶応4年(1868)上野戦争に参加した彰義隊として描かれています。銃口を向けた眼差しが印象的。 pic.twitter.com/FtP9Tq07lD

【浮世絵の戦争画 7/1~7/26】歌川芳虎「信長公延暦寺焼討之図」。題名は織田信長とありますが、絵は明らかに薩長軍と彰義隊の上野戦争です。当時の出来事を絵画化することが許可されていなかったため、昔の出来事という設定で刊行されました。 pic.twitter.com/ygEiuu4oOX

戦争の一場面で、喇叭(ラッパ)手が捕虜になったが、武器を持っていないと命乞いをし官軍に卑怯者と責められる様子。暁斎は幕府の旗本として上野戦争の戦場跡を歩き、悲惨な光景に涙したと伝えられている為、この作品もその様子に影響を受けて描いたものと考えられる。

【絵画データ】
1874年作
大判錦絵
収蔵場所 東京都立中央図書館(東京都・港区)

彰義隊士の天野八郎と中村徳三郎

「戊辰の役方公を誤て上野山内に屯集し、王師に抗して斃れたる彰義隊等が七回の忌日営む本年五月。
清水堂の施餓鬼に納る有志の輩が資金に換え。
伝聞たる其時の軍談をかき輯め、松の落葉と題したる。
拙き著述も亡魂を弔慰む端となりもせバ、追善供養と思ふも鈍まし」

上野戦争の戦火により焦土と化した寛永寺付近

★ 上野戦争のなごり

200を超える彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、三ノ輪円通寺の住職仏磨らによって当地で茶毘に付された。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、長期間墓を造ることは許されなかったが、明治14年(1881)に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって上野公園内に造立された。彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻んでいる(台東区有形文化財)。

円通寺の住職が彰義隊士の遺体を埋葬し供養をしたのが縁で、戦闘が行われた黒門は、円通寺に移築されており、弾痕の残った柱などが保存されている。

住所:東京都荒川区南千住1-59-11
電話:03-3891-1368
HP:http://www6.plala.or.jp/entsuji/

戦場となった寛永寺には、明治44年(1911)に「上野戦争碑記」が建立されました。これは、「彰義隊」の名付け親である元幕臣阿部弘蔵が上野戦争の経緯を書いたものです。

その内容は下記のサイトで読むことができます↓
「漢文石碑を読み歩く:上野戦争碑記」
http://bon-emma.my.coocan.jp/sekihi/ueno_sensou.html

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