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【沖縄の真実】普天間第二小学校の移転問題と産経新聞のデタラメ記事

普天間基地移設問題に関するニュースで、校庭で遊ぶ児童たちの頭上を低空飛行していく米軍機の映像。あれが普天間第二小学校です。第二小学校の移転計画がなぜ頓挫したのかをあらためて検証します

更新日: 2018年01月16日

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この記事は私がまとめました

はいさい隆之介です。【沖縄の真実】をお届けします。

返還問題で話題の普天間基地(普天間飛行場)に隣接して「宜野湾市立普天間第二小学校」があります。
 普天間基地返還問題に関するニュースで、校庭で遊ぶ児童たちの頭上を低空飛行していく米軍機の映像を見たことがあると思います。

 どうして、そんなところに建てられたのかについては、次に譲るとして、今回は、どうして、移転しなかったのかという「普天間第二小学校の移転問題の真実」に迫ってみたいと思います。

=追記=
「なぜ普天間第二小学校は普天間基地に隣接して建てられたのか。」についてまとめました。

 普天間第二小学校の初代教頭だった宮城武雄さんの証言によれば、普天間第二小学校の敷地は「新城の自治会の公有地や(本土で言えば)鎮守の森を、また周辺の土地を持ってる人たちにも話して譲ってもらった。自治会の公有地というのは、村祭りで芝居とかをやる「あしびなー」(野外劇場)とか闘牛場とかだった。新城の学校の敷地としてなら喜んで譲るからって」(NHK戦後史証言プロジェクト)

 普天間第二小学校の校地の広さは、文部省基準の4割(1982年時点では34%)しかないが、それを確保するのも精いっぱいであった。
米軍統治下であったが、米軍の協力はなかった。
 普天間の大人たちが必死になって、やっと確保したのが、あの普天間基地とフェンス1枚を隔てただけの土地だった。
 運動場も狭く、運動会などの行事や体力測定等は、喜友名にある軍用地内の広場を借り受けて(通称「第二運動場」)行なってきた。移動だけで授業時間の多くを費やした。(『普天間第二小学校創立35周年記念誌』)

では、「普天間第二小学校の移転問題の真実」を続けます。

まずは、2010年1月の産経新聞 宮本雅史那覇支局長(当時)の署名記事を見てみましょう。

2010年 産経新聞の記事内容 (宮本雅史那覇支局長の署名記事)

「普天間第二小学校の移転問題」が持ち上がったのが、1980年頃。移転を断念したのが1992年。
それから20年近く経って・・・突如としてこの記事が書かれた(ウラ事情は後述)。

2010年1月9日 産経新聞 那覇支局長 宮本雅史
【揺らぐ沖縄】児童の安全より反対運動優先か 基地隣接の小学校移転

に書かれた内容をまずは紹介し、その後に1つずつ検討を加える

この記事を書いた産経新聞 宮本雅史那覇支局長(当時)

産経新聞の編集委員なども務めた。

当時、宜野湾市長だった安次富(あしとみ)盛信さんによると、~安次富さんらは移転先を探したが確保できなかったため米軍と交渉。約1キロ離れた米軍家族用の軍用地のうち8千坪を校舎用に日本に返還することで合意。

ところが、市民団体などから「移転は基地の固定化につながる」などと抗議が殺到した。安次富さんは「爆音公害から少しでも遠ざけ危険性も除去したい」と説明したが、市民団体などは「命をはってでも反対する」と抵抗したため、計画は頓挫したという。

2度移転計画が持ち上がった。
(安次富市長の時代にいったん市民の反対で頓挫し、2度目の移転計画が)昭和63年から平成元年にかけ、・・・学校を移転させる意見が住民から再び持ち上がった。
だが、やはり市民団体などに・・反対され、移転構想は(再び)ストップした。

出典【揺らぐ沖縄】児童の安全より反対運動優先か 基地隣接の小学校移転- MSN産経ニュース

2度移転計画が持ち上がった。
1度目は、安次富市長の時代にいったん市民の反対で頓挫し、2度目の移転計画は、昭和63年から平成元年にかけて再び持ち上がった。としている。

市関係者も「市民団体などは基地反対運動をするために小学校を盾にし、子供たちを人質にした」、「基地反対派の一部には、普天間飛行場と子供たちを反米のイデオロギー闘争に利用している可能性も否定できない」と指摘

何の具体的な事実の指摘もなく、「市関係者」という存在すら明らかでない者がした「証言」として記事にされました。

以上の記事が、歴史的背景や経緯が不明なままネット上で拡散され、辺野古「新基地」建設の反対運動への批判を誘導してきました。

「反対運動は、プロ市民によるものであり、彼らは、地元の子供たちの生命を利用し平気で犠牲にする」と。

このデマは、2017年になっても産経新聞記事の画像とともに拡散され続けている。
「『世界一危険な基地』は、学校を移転させずに危険をとどめようとする左翼のでっちあげだ」と・・・

産経新聞の記事はデタラメ、大嘘

【沖縄の真実】として、断言します。

この産経新聞の記事は、デタラメ、大嘘です。

以下に2010年1月9日 産経新聞 那覇支局長 宮本雅史が書いた
【揺らぐ沖縄】児童の安全より反対運動優先か 基地隣接の小学校移転
という記事を個別論点ごとに検証していく。

とその前に、産経新聞のデマ記事の「ソース」が確認できたのでそちらから紹介していく

どうやら産経新聞 宮本雅史 のデマ記事は、
2009年12月に鳩山政権攻撃のために作られたチャンネル桜 の井上和彦と大高美紀 のまったく無知かつデタラメな 「普天間基地の真実」なる動画をもとにして、何らの検証もせずにチャンネル桜そのままに書いたもののようだ。

 この動画によって、「市民団体などは基地反対運動をするために小学校を盾にし、子供たちを人質にした」と証言したという「市関係者」なる人物も明らかとなった。
それは當山正範氏である。

當山正範氏は、この動画では、「宜野湾市民」として登場しているが、2014年の名護市長選では「名護市を豊かにする市民の会」の会長として、江崎孝と共同して島袋吉和氏を移設賛成派統一候補にしようと強烈な運動をした人物。生コン会社専務
世日フォーラム沖縄代表幹事や三善会会長も務めており、統一教会との関わりの深い方だ。

「名護市を豊かにする市民の会」会計責任者の島袋利雄氏もキャンプ・シュワブの工事を仕切る沖縄北部地区生コンクリート協同組合理事長だそうです。

どちらも辺野古新基地の工事へ生コンを納入する業者。さぞかし鳩山由紀夫のことが憎かったであろうお二人ですね。

13分辺りから、「市民団体などは基地反対運動をするために小学校を盾にし、子供たちを人質にした」といったのは當山正範氏であると証言している。
「安次富盛信(元市長)に会った時に『8割がた決まっていたが、市民団体の妨害でとん挫した』と教えてくれたのだ」とも証言しており、産経新聞 那覇支局長 宮本雅史は取材をせずに、この動画から記事を書いた可能性も浮上してきた。

それでは、以下で個別に検討を加えていく

「国の補助による予算確保」は大嘘 ~デマその1

産経新聞の記事にあるような「国の補助による予算確保」の事実は存在しません。

滑走路があるだけの野っぱらで撤去計画もあった普天間基地は、1979年に岩国基地や北谷町のハンビー飛行場から米軍ヘリなどが普天間飛行場に移駐して一変し、第二小の騒音は悪化した。滑走路で訓練中のOV10ブロンコが墜落して第二小移転の機運がさらに高まった。
 ( http://matome.naver.jp/odai/2145713863905515101 )

 移転先を探すも校区周辺は住宅が密集し難航する中、キャンプ瑞慶覧の住宅地区の一部を返還してもらってはどうかという案が持ち上がった。

80年9月、安次富市長が、普天間第二小学校の移転を決意した。
 「騒音で中断を余儀なくされ、適正な教育活動もできない。移転することが得策だ」。第二小の移転先としてキャンプ瑞慶覧の一部(現在の西普天間住宅地区)返還を求め、那覇防衛施設局(当時)へ要請書を出した。
 普天間第二小学校移転計画は、安次富市長が立ち上げた功績であることは疑いない。

 移転計画を進めるにも、先立つものが必要です。宜野湾市や県は、県選出国会議員を通じて、日本政府に要望を出した。
 安次富市長は83年7月、小学校を新たに建てる用地の取得費(当時試算で)25億円を、防衛施設庁に補助を求めた。だが、国は「用地費の補助は制度にない」と型通りの対応だった。

 1987年の衆院特別委員会での玉城栄一議員の質問に対する沖縄開発庁の答弁は、国からは移転用地取得の費用補助は出せないことを説明しています。

用地取得費の国庫補助でございますけれども現在二つの制度がある・・・普天間第二小学校の場合には、第一の補助要件にも第二の補助要件にも当たっておりませんので、用地費の補助が難しいという状況にございます。(沖縄開発庁振興局長)

「用地費の補助は制度にない」を繰り返す政府に対し、玉城栄一議員は、「防音装置もされてないという状況で劣悪な教育環境と安全性の問題に鑑みて、政治的に何とかしてあげてほしい。」「国の基地提供によって、騒音しているのだから、国が補助してくれぬかという話なのです」と食い下がったが、窓を閉め切って授業ができるよう冷房工事の補助をしましょうというにとどまった。

宜野湾市や県は、普天間第二小学校の置かれた状況を、国がまったく理解してくれないことに失望する。新聞記事に登場する自民党系の安次富市長の時代ですら、国は通り一遍の法適用しかしなかった。
 1985年、安次富氏を市長選挙で破り、新たに市長に就任した桃原市長の時代になっても、それは変わらなかった。
 桃原市長は、用地取得のための補助金交付と、編入条件の撤回(後述)を政府関係機関に陳情して回った。しかし、聞き入れられなかった。

1986年11月には桃原市長(当時)が、(後述の)「返還条件」の撤回と、用地取得のための補助金交付を那覇防衛施設局へ要求した。
 88年11月には、与党議員や教育委員会とともに再度の上京、関係省庁へ用地費の補助と、編入条件の撤回を要求した。
 それでも、基地を抱える街の訴えは届かなかった。

出典沖縄タイムス 誤解だらけの沖縄基地 普天間第二小学校移転は反基地運動に妨害された?

このように桃原市長の時代になっても継続的に、いや以前にもまして積極的に用地取得のための補助金交付と、編入条件の撤回(後述)の政府陳情や国会議員との協力が続いていた。

ところが、
産経新聞 那覇支局長 宮本雅史は、安次富市長の時にいったん市民の反対で頓挫して、2度目の移転計画が「昭和63年から平成元年にかけ」再び住民から持ち上がったと書いている。
(1986年11月にも桃原市長が上京している。1987年には玉城栄一議員が国会で質問しているにもかかわらずである)

ここにも、デマを書いた意図が透けて見える

さて、なぜ30億以上の用地費になるかといえば、(後述の)「返還条件」として米軍は「4万平方メートルの返還」を提示した。これは、通常の小学校の敷地面積の4倍以上にあたる(沖縄の平均からしたら、6倍近い広さ)。
 民有地であり、一部だけを小学校用に市が買い取り、他の部分は所有者に返還するというのでは、地主が納得しない。「4万平方メートル」全部を市が買い取るしかないし、造成も必要な土地だから30億以上の用地費になるのです。

なお、これらは1980年代の出来事であり、
その後20年以上経って(蒸し返しのデマである)産経新聞の記事が書かれた後にも、その記事が発端となって市議会で問題とされ、市側が答弁している。

産経新聞の報道の反響を受け、2010年10月8日の市議会定例会で、宜野湾市の山内基地政策部長が答弁に立ち説明した。
 用地取得には30~60億かかる上、国の補助も得られず、市の財政では対応不可能だった。
 移転費用予算が確保されていたということも、市民団体の反対のために移転できなかったことも事実ではない。

出典沖縄タイムス 2010年10月14日

1987年の玉城栄一議員の国会質問のなかには、「30億円といったら宜野湾市の年間の予算と大体匹敵するということで、とてもこれは市の力ではできない。」とある。

(産経新聞の記事「国の補助」について)「こんな話は、聞いたことがない」と、教育次長や企画部長などで同問題にかかわり、のちに宜野湾市長を務めた比嘉盛光さんは、首をかしげる。

出典沖縄タイムス-誤解だらけの沖縄基地 普天間第二小学校移転は反基地運動に妨害された?

よって、用地取得のための費用(補助金)について

「国の補助による予算確保」というのは大嘘です。

さらに
産経新聞の宮本支局長の署名記事のデタラメは、これにとどまりません。
「移転用地が用意された」というのも全く事実とは異なるものです。
次に検証していきましょう

「移転用地が用意された」との大嘘 ~デマその2

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