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[魚拓全文]ASKA(飛鳥涼)のブログ魚拓・全文がヤバイ件

ASKA覚醒剤事件経緯など音楽人生ブログにアップ !1月9日夜、これまでの事件の経緯などを含む、これまでの音楽人生をブログに公開した。だが、10日未明にこのブログは全編が削除され、現在はみられない状態が続いている。

更新日: 2016年01月11日

濡れ猫さん

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0.700番

2016-01-09みなさん、お久しぶりです。ASKAです。この度は、私を信じてくれていた皆さんを裏切るような行為をしてしまい、深く深く反省しております。本当に申し訳ありませんでした。心から謝罪をさせていただきます。事件から約1年と半年が経ちました。溢れかえったマスコミ報道の洪水の中で、私を愛してくれたみなさんがどれだけ苦しまれたかを思うと、胸の痛みは最大限に達しております。今回、私には何があったのか、どうしてそうなったかをお伝えしようと思いました。スタッフ、家族、数人の友人など「語るべきではない」と愛情を持って反対する人もいました。反対する人の理由は、私には歌があるから、歌で今後の人生を乗り越えて行くべきだというアドバイスです。もちろん、公開することに同調してくれる人たちもいましす。様々な意見はありましたが、やはり私は皆さんとの絆の中で、あったことを直接私の口から伝えることこそが絆だと感じました。今からここで語ることで、さらに胸を痛める方々もおられることでしょう。「聞きたくなかった」と思われる方々も出てくるでしょう。私は、悩みました。しかし、私は皆さんの前で、優しさに甘え、何もなかったかのような顔で再びパフォーマンスをすることはできません。間違った行いをしてしまったことを認め、人生を悔い改め、その上で皆さんの前に立とうと決心をいたしました。事件後、私はこの件に関して一切口を開いてきませんでした。それ故、メディアからは「ストリー」や「と、いう情報」「~らしい」を面白おかしく語られてしまいました。私の犯した「事件の事実」以外、私の目に飛び込んできた関連記事は全部嘘です。ひとつも本当のことはありませんでした。ゴシップメディアとはそういうものなのでしょうが、ここで私が語らなければ、書かれたことが全て本当のこととなって皆さんの胸の中に染み付いてしまいます。これを発表することでの反響は大きなものとなるでしょう。これを読んだメディアがどの部分を切り取って世の中に紹介するか、みなさんよく見ていてください。その上でメディアというものを判断してください。(これを公開するにあたってメディアのバッシングは)覚悟はしております。私は、言い訳のためにこれをお伝えするわけではありません、私の至らなかったことも、全て書き出しました。みなさんがいちばん知りたかった、または知りたくなかった部分です。

私は、何も罪のない一人の女性を犯罪者にしてしまいました。一生苦しみを背負うこととなってしまいました。全て私の不徳の致すところです。私は、その苦しみから逃れるかのように楽曲制作に没頭いたしました。現在、フルアルバム約5枚分の楽曲が揃っています。また、並行して書いていた走り書きではない散文詩は110編を超えました。まだレコード会社、出版会社などはどこも決まっておりません。執行猶予が解けるまで活動するべきではないという意見もあります。しかし、私は活動することを選びました。多くの歌手は年齢とともに声が出なくなり、キーを下げなければ歌えなくなります。私はミックスボイス(表声と裏声を同時に鳴らす)という歌唱法を使っています。高い音でも声が細くならいのは、その手法を用いているからです。今尚発表した楽曲を、そのままのキーで歌うことができています。極めて珍しい例です。しかし、歌うことを休んでしまえば、その手法も使えなくなるでしょう。私は、歌を歌い続けるために歌を歌うことを選びました。多くの批判を浴びることは承知いたしております。私は、私の人生をこれ以上邪魔したくありません。これを読んで私から離れていくリスナーも現れるでしょう。しかし、今私がやらなくてはならないことは、沈黙を守らずに全てを語ることだと思っています。今から語るこの文章の中で、私がいちばん気をつけたことは、私にとって都合の良い語りになってはならないということでした。長い文章になりますが、最後まで読んでいただけることを願っています。 ASKA

1 序章
2 ロンドン
3 kicks
4 ピンチとチャンス 
5 韓国ライブ
6 リアルキャスト解散
7 GHB
8 勘違い
9 飯島愛
10 盗聴盗撮
11 覚せい剤
12 音楽関係者
13 恐喝
14 週刊文春
15 エクスタシー
16 逮捕
17 裁判
18 メール
19 後記
20 追記

本の中で
森を見渡す空き地でひとりの子供が放り投げた長靴は涸れた空へと吸い込まれた僕たちはもう僕たちではなく褐色の知恵を振り絞った昭和の息吹のようにひとりの力で時代の幅を知ろうとしている肩を怒らせて寂しがってもダメなんだ寂しいときには寂しい景色に溶け込まなくてはならないんだ七月の終焉を迎えようとしている今間もなくやってくる残された八月の日差しの中を四月の顔で潜り抜けたいと願う土色の地球の上に築いた砦では遠い宇宙の旅に出かけたはやぶさの帰還を待つように今日も口をつぐんでる言いたいことは真新しい朝の瞬間に生まれるそしてそれはカイコのようになって僕のところにしかやって来ないフリーダムを食べるんだ走りながら転んでしまったざらついた血が膝に滲んだ僕は瞼の裏から透けて見える太陽に向かって正直につまずきを伝えるんだこの本の中で700番

1.序章

眠りについた真澄の顔を覗き込んだ。つい5分ほど前には、たわいもない話をしていたのだ。私はドアに掛けてあったジャケットを着て、意味もなく部屋を見渡した。30平米ほどの部屋は、いつもキチンと片付けられている。必要なものを探す必要がない。生活用品も装飾品も、まるで自分の定位置を確保しているかのように並んでいる。これは性格なのか、育てられた環境なのか。その徹底さには驚かされる。後は、音を立てぬようドアを閉めて出て行くだけだ。真澄の住むマンションにはエントランスが表と裏と、二箇所ある。どちらから出て行くかは、その日の気分次第だ。その日は裏のドアを開けた。2014年5月17日。午前7時過ぎ。朝の光はもう眩しかった。青山通りでタクシーを拾うためにドアから10歩ほど歩いた。私は普段から下を向いて歩く癖があるので、その男たちを足元から見上げるような仕草になった。目の前に3人の男たちが立ちふさがったのだ。横をすり抜ける隙間も与えられなかった。三人のうち、真ん中に立ったいちばん長身の男が私に向かって声をかけてきた。「ASKAさんですね。今からご同行願います。」その時は、男の言った意味がわからなかった。

2.ロンドン

1996年6月。私たちCHAGE&ASKAはロンドンで行われた「MTVアンプラグドライブ」に招かれた。電子音源を使用せず、生楽器のみで演奏するのだ。その演奏形態でプラグを使わないことから「アンプラグド」と呼ばれた。日本国内で行われるアンプラグドライブではなく、世界へ向けての本場のアンプラグドライブであり、アジアのアーティストでは初の出演となるため、我々は沸いた。前年も招待いただいていたのだが、あまりに知名度の高い番組であるために自信の無さもあり、お断りしていたのだ。しかし、その年は違った。「挑戦してみよう」という気になっていた。全世界約60ヵ国放送のお化け番組であった。この年アンプラグドに先行して、アルバム「ONE VOICE」がリリースされていた。マキシ・プリスト、リサ・スタンスフィールド、チャカ・カーン、INXS(イネクセス)のマイケル・ハッチェンス、ボーイ・ジョージ、リチャード・マークスなど総勢12人の海外アーティストがCHAGE&ASKAの楽曲をカバーしたアルバムだ。その12人に私たちが加わった。このアルバムを背景に海外で好まれそうな楽曲、ふたりのバランスなどを考慮し、アンプラグドライブでパフォーマンスする12曲を選んだ。約1時間20分のパフォーマンスだったが、要年なリハーサルを行った。リハーサルではアレンジの面で元スパンダー・バレエのジェス・ベイリーと、意見の衝突もあったが、全てが終わってみれば最高のパフォーマンスだったと肩を抱き合った。アンプラグドライブはMTVによる完全収録なのだが、当日のミックスダウン(サウンドの最終調整)はアーティストに任されていた。これは非常に有り難かった。勝手に音のバランスを弄られることがないからだ。CHAGEはこの時間を利用してビートルズの出身地である「リバプールに行きたい」と言う。ミックスダウンは私とプロデューサーの北里に一任された。つまらないところでぶつかることがなくなるので、これはこれで良い。3日間かけて作業は終わった。当時、私たちは「リアルキャスト」という会社を経営していた。その会社にはロンドン支店もあり、海外からなど綿密な情報網があった。先に書いた「ONE VOICE」の制作なども、このリアルキャストロンドンの存在が大きかったのだ。アンプラグドライブのミックスダウンが終わった夜、リアルキャストロンドンの外国人スタッフが、私にこう言った。「今夜、クラブで盛り上がりましょう!」「良いねぇ!行こうか。」ロンドンのクラブには、日本とはどこか違う臭いのようなものがある。あれはペンキ塗料の臭いなのだろうか。それにイギリス人女性が使用する香水の臭いなども混じって、独特な雰囲気を醸し出している。最初、私はスタッフが踊るのを観ていただけだったのだが、すぐにホールの中央まで手を引かれて行った。30分ほどして私は席に戻った。眺めているだけで十分だったのだ。その時、男が声を掛けてきた。「ねぇ、これ要らない?」丸い形をした白い錠剤だった。「何?これ」「知らないの?エクスタシーだよ。」「何?エクスタシーって。」「これを飲むと気分がハイになるんだ。お酒を飲んで酔った感じだよ。」

当時、私はアルコールが全くの苦手だったので、お酒を飲んでハイになる気分を味わってみたいと思った。「みんな飲んでるんだよ。ほら、見てみなよ。」男はトイレの方向を指差した。そう言えば、クラブに来た時から気になっていたのだが、男性用も女性用も列を成して客が並んでいるのだ。「人前で飲んじゃダメだよ。トイレに入ってひとりで飲むんだ。これはエチケットだからね。」みんなエクスタシーを飲むために並んでいるのだと言う。「これ、一錠いくら?」「15ポンド」「2500円ぐらいか・・。じゃあ、1錠頂戴。」男は、ニコリと笑ってこう言った。「まずは半分で良いからね。ハイな気分が終わりかけたら、もう半分を飲むんだ。」「ふ~ん。」私は、ペットボトルを掴んで、そのエチケットを実行することになった。トイレに入ると、みんな入れ替わりでドアの向こうに入る。すると、20秒もしないうちに出てくる。用を足してはいないのだ。いや、用と言うのはエクスタシーを飲むということなのだろう。それなら用は足しているということになる。そして、私の番になった。少しドキドキするも、お酒を飲んで気持ちが良くなるということを味わえるなら、こんな便利なことはない。男に言われたとおり錠剤を半分に割り、水と共に一気に流し込んだ。

「ハヴァ・グッタイム!」次の客と入れ替わる。未知のゾーンに足を踏み入れると人は怯える。しかし、額に銃口を突きつけられたわけではないのだ。それよりも自分の知らない自分に出会えることに興味を持った。傷さえ無ければ痛みはない。天国が目の前にあると言われて足を向けない人がいるだろうか。幸せの足し算が始まるのだ。私は40歳から50歳までタバコを吸った。理由はない。ただ、肺に入れることだけはしなかったのだ。タバコを指に挟んでいるだけで落ち着くことができた。不思議なものだ。遡ると、高校生の時一度だけタバコを吸った事がある。それも一口。もちろん肺に入れる勇気などなかった。その時の罪悪感と言えば、このエクスタシーなど比ではなかった。そのくらい自然に受け入れたのだ。そのまま私は元の席に座った。30分経っても何の変化もない。スタッフは楽しそうに踊っている。「何だ。ガセじゃないか・・。」2500円分ドキドキさせてもらったと思えば良い。そして、さらに10分が経過した時だった。何かが突然変わったのだ。体が軽くなってフワフワとして行く。それは衝撃的だった。脳に掛けてあった鎖が外れたのが分かったのだ。見る見る楽しくなって行く。スタッフの居るホールへ行きたくなった。そう思った時には、もう席を立っていた。「ハイ!ASKA、楽しそうじゃん。」「そう、楽しい。オレはみんなのことが大好きだ!」「私たちも、そうだよ!」日頃、口にしない言葉が堰を切ったように飛び出してくる。どれもが正直な言葉たちだ。照れがない。全てから解放されているのだ。私は幸せの定義とは解放だと思っている。どんなに自由な生活を送っていても、私たちはある一定のルールの中でそれを送っている。例えば、「今日からあなたは何をやってもいいよ。全てにおいて許される。正も悪もない。全てがあなたの自由だから。」と、言われたとしよう。その時あなたは、人間生活、理性、社会のルールから解き放たれて全ての自由を勝ち取り、最高の幸せを感じるはずだ。そんな感覚になり、心は満ち溢れたのだ。スタッフたちとハグをする。隣で踊っていた見知らぬ女性や男性たちともハグをする。周りに居る誰もが良い人に感じた。それがエクスタシーによるものだとは思ったが、こんなに素直になれるなんて最高じゃないか。同時に、

「お酒に酔うってこんなに楽しいのか。素晴らしい!」私は、人生を半分損して生きて来たような気持ちになった。胸の内を打ち明けるというのは、こんなにも幸せなことなのか。気持ちはどんどん高揚し、当時ロンドンで大流行していたリバレンスの曲「サルバメア」がクラブ中いっぱいに鳴り響き、私は満悦至極した。しかし、ほど間もなくしてハイな気分が薄れてきたのだ。その曲を境に潮が引いて行くように急に寂しくなってゆく。ハイな気分は2時間強続いたことになる。「ああ、これか・・。」直ぐに残りの半錠を入れたポケットを弄ったが、無い。どうやら踊っているうちに落としてしまったらしい。私はよくポケットに手を入れる癖があったので、手を入れたり出したりしているうちに無くしてしまったのだろう。しかし、最高の2時間を過ごすことができたのだから、もうそれは良い。そういう諦めがついたのも、また来れば良いと思ったからである。部屋に戻ってから、

「あれは何だったのだろう」と、考える。実はその昔、確かに経験したことのある感覚だったのだ。お酒に酔ったという感覚ではないが、あのフワフワと雲の上に居る状態は何だろう。眠れない、眠りたくないという気持ちが身体を支配していた。そのまま、眠りの浅いところを波打つように行ったり来たりしていたのだが、ようやく記憶の場所にたどり着いた。「あの時のマラソンだ!」札幌の高校に通っていた時だ。1年生の時だった。学校生全員でフルマラソンをしたことがある。正確には、42.195キロメートルを完歩するというイベントだったのだが、運動部に所属している身では「歩く」という選択技は用意されなかった。何時間かかっても「走り抜く」ということしか与えられていなかったのだ。生徒の多くは最初から歩いている。ダメになればバスが拾ってくれるというので、さほど覚悟がいるほどではなかったろう。しかし、私たち運動部はそれが許されない立場に居た。「一緒に走ろうな。」と、言い合った友人とも逸れ、すでに10キロを越えていた。少しずつ苦しくなる。「これは、どこかでバスに乗せられてしまいそうだ。」剣道部の顧問の顔が過る。「いや、頑張らねば。」走るのを止めた生徒を追い抜いて行く。自分が何番ぐらいで通過しているのかは分からないが、最終ゴールまで案内された看板を見ながら、何キロ地点に居るのかを走りながら計算していた。脇腹こそ痛くなることはなかったが、足が重たくなって行くのが分かる。20キロを過ぎた辺りだった。「あと、半分以上もあるのか・・。」苦しい。それでも足は動かしていなければならない。そして、それは間もなく起こった。確かにラインのようなものがあって、そこを越えたのだ。突然身体が軽くなって、フワフワとしてきた。走っていることに多幸感を感じているのだ。「何だ。これは・・。」

先ほどまでの苦しさが無い。消えた。幸せ一杯だった。「このままなら何キロでも走れる。100キロだって問題ない!」走るスピードも2倍になった。ランナーズハイだ。人間はどんなことをやるにしても、力の80パーセントを出し切ったところでリミッターがかかってしまうようになっている。脳が身体を壊させないよう危険信号を発令し、これ以上は無理だと思わせてしまうのだ。つまり、80パーセントを100パーセントと感じるようにできている。そして脳の指令に逆らい、そこを無理に越えると鎖が外れる。残りの20パーセントを使える状態になるのだ。その瞬間身体と気持ちは無敵になる。オリンピックなどでドーピングという言葉を耳にするが、この20パーセントの力を薬で引き出すことを言う。ナチュラルな状態で20パーセントを引き出す。これがスポーツの世界。風邪薬さえも飲めないのだ。走っているうちに、その20パーセントゾーンに突入した。しかし、「100キロも軽い。」と、思えた気持ちは35キロくらいを超えた地点でだんだんと消滅し、急に身体が重くなってきた。15キロ近くはランナーズハイで乗り切ったことになる。ゴールは4時間台半ばだったと記憶している。あのフワフワ感をクラブで再体験したのだった。翌日、スタッフに昨晩のことを伝えた。「ASKA! エクスタシー飲んだの!? あれ最高でしょう?イギリスでは病院で処方してるんだよ。」「ええ?病院にあるの?」「正式名称はMDMA。」「MDMAね。良いこと聞いた。」そして、私たち CHAGE&ASKAはイギリスを離れ帰国した。日本に戻ってからは取材ラッシュだった。アジアアーティスト初のアンプラグドライブ出演というタイトルは大きかった。取材陣もレギュラーではない人が増えて行く。椅子があれば座る人が居る。座る人が居れば会話がある。会話は音だ。音は音楽でなければならない。音楽は人と人をつなぐ。こうやって仲間は増えて行った。間もなくして私は行動に出た。私には東京の脳神経外科で看護師をしている従兄弟がいた。連絡をしたのだ。「久しぶり。」「アンプラグド、おめでとう。」「おお、ありがと。ねぇ、いきなりなんだけど、MDMAという薬を処方してくれないか。」「MD・・何?」「MDMA。」「10錠くらい欲しいんだ。」「分かった。医師に聞いてみるよ。」「悪い。頼んだ。」

何の悪気も罪悪感も無かった。日本でも処方しているだとか、していないだとか聞いていたので、確かめる気持ちもあって連絡してみたのだ。「あれがあれば、もうお酒飲めなくて良い。」それから数日後、従兄弟から電話があった。「兄ちゃん、あれ。MDMAね。処方できない。」「何で?」「あれ、覚醒剤と同じ麻薬指定されてる薬らしいよ。」「そんなことない。ロンドンでは普通に処方されてる薬だよ。」「とにかく医師が出せないって言ってるから、ごめん。」「そうか・・。仕方ないな。」「意外と難しいんだな」日本では忘れるしかない。それでも、あれが麻薬であるはずがない。あんなに正直に気持ちを打ち明けられて素直になれる薬なのだ。私はMDMAの類似モノもあるはずだとネットで検索をした。 MDMAではMDAしか引っかからない。MDAも同様のものらしい。MDMAの紹介や体験談などを語ったページばかりで、販売しているところには辿り着かなかった。次にエクスタシーで検索した。最初にヒットしたのは「EXTCY」という赤い錠剤だった。値段もロンドンのエクスタシーとさほど変わらない。効能は「ネットでは薬事法に触れるので説明できない」と書かれていた。しかし、それを使用した人の発言では「幸せな気持ちで満たされた」と書いてあった。やはり、同種のモノだ。「エックスティシーか・・。」だが、購入は止めた。本名を使えば身は隠せても、相手には記録が残るだろう。後々のことを考えるとクリックする気は失せてしまったのだ。「また、ロンドンに行くことはあるだろうし、そのときやれば良い」その後は何も無かったかのように音楽活動に専念した。

僕に似たやつら
誰が何と言おうとカーネギーの法則さ悩みはひとつじゃないレゴブロックのようになって固まり合っている外すんだ ひとつずつ悩みなんてうかつでもろいもんさひとつ鍵が外れたら一気に心は軽くなるサザランドアベニューを覚えているかいふたりで待ち合わせしたロンドンの一角さ濡れた君の唇を奪ったのは間違いなく僕のひとりだった僕にはいくつも顔があってどれも同じ顔をしてるフォグライトに照らされた街並みがとてもきれいだった唇を奪ったのは罪だったかもしれない月夜の晩はほどよく影が浮かび上がってあちらこちらでつぎつぎと事件が起こる僕によく似たやつらが通る月夜の晩には犯人不明の事件が起こる

3.kicks

日本に戻ってから思い出すロンドンは日増しに色濃くなっていた。エクスタシーではない。クラブシーンだ。これまでの自分の音楽は、一般的にラブソングを耳障りの良いメロディで歌う歌手と決めつけられている感があった。ラブソングは自分のベーシックだが、ライブではそうではないシャウト系の楽曲も多い。90年代半ばからバンドサウンドが主流になってきていることを感じていた私は、より一層シャウト系のサウンドに目を向けた。1997年のソロライブ「コンサートツアーID」では、バンドと一体となった男臭のするステージとなった。新しいモノが見え始めている。そのライブの終わりに、「みなさん、次にお邪魔するときには隣にもうひとり居ますんでよろしく。」と、締めくくった。いや、締めくくってしまったのだ。世の中の流れを敏感に感じ取った活動をしたいと願うのは、どのアーティストも同じだろう。この時期CHAGE&ASKAでそれができるであろうか・・。オーディエンスは変わらないモノを求めると言いながら、意外性を求める。良い意味で「期待を裏切る」というやつだ。ライブ曲を並べてみる。ライブの構成に入ってみたのだ。だが、やはり意外性を体感させることのできる並びにはならない。「CODE NAME 2 SISTER MOON」が最新のアルバムだったが、バンドサウンドを迎え撃つ楽曲は並ばなかった。「世の中の流行に沿ってリスナーも動いている。いまCHAGE&ASKAをやるのは非常に危険だ。『何か違う』という印象を与えてしまうかもしれない。まず、バンドサウンドを感じさせるアルバムを作らねば。」

ステージプランナーの久保、総合プロデューサーの渡部、音楽プロデューサーの北里、CHAGE。大いに悩んだ。私はクラブシーンの影響もあり、ソロ楽曲の駒は揃っていくのだが、CHAGE&ASKA用の楽曲は進まなかった。その頃、ASKAバンドのメンバーと日々音楽談義をしていた。CHAGE&ASKAに欠けていたのはこれだった。顔を付き合わせて音楽の話をすることがなかったのだ。スタッフはそれを願ったが、それは実現しなかった。結局、ツアー発表のギリギリ間際になって、今回のツアーは見送ろうという判断を下した。断腸の思いだったが、CHAGE&ASKAをこれからも継続させるためには正しい判断だった。今振り返っても、あの時の判断に間違いはなかったと言える。その後、直ぐにソロ活動を発表した。「次はふたりでお邪魔する」と公言しておきながらソロに切り替えることで、多くの批判を浴びることになるだろうと予測してはいたが、予測以上にそれは強かった。しかし、リスナーに気弱なところや本当の理由は語れない。批判を押しのける形でのソロ活動となった。私は、書き始めていた楽曲を引っ下げてスタジオに入った。曲のテイストから、このアルバムはロンドンで録音しようという結論に達した。楽曲のベースメントは日本で録音し、オーバーダビング系はロンドンで行なうという手法だ。ライブを意識したクラブサウンドとロックの融合だ。その変貌に固定リスナーは困惑するかもしれない。しかし、ソロアルバムはあくまで実験だ。後に名盤と呼ばれるアルバムになることを信じて作業に励んだ。ロンドン滞在中クラブに行くこともなく、リリース予定に間に合う最後の日までスタジオに入った。そしてアルバム「Kicks」(刺激)が出来上がった。ライブリハーサルではオーディエンスの顔が浮かぶ。賛否の否はあるだろうが、装甲車のように否をなぎ倒して行く構えでツアーに臨んだ。ライブはどの会場も盛り上がった。新しい手応えだ。前回の「IDライブ」の反響がそうさせたのか、この「kicksライブ」頃から一気に男性客が増えた。同性に指示されることは大きな喜びだ。

そして、ロンドンからライブ撮影チームがやって来た。大阪城ホール4日間の後半日、3日目、4日目がライブ映像のシューティング日となっていたのだ。しかし、この日のライブがその後のアーティスト活動を大きく左右する出来事となってしまうことになるとは思っていなかった。1日、2日目はいつもと変わりのないライブだった。中1日が喉を休ませるためのスケジュール構成になっていた。ところが、その休みの日に風邪を引いてしまったのだ。シャウト曲が並んだステージであったため、元々喉にかける負担は大きかった。そんな時に風邪を引いてしまったのだ。ロンドンからの撮影チームは綿密な打ち合わせを終えており、すでに設営に入っている。風邪を引いたからと言って、今更ライブを飛ばすわけにはとてもいかない。3日目のシューティング日のリハーサルは、少しでも喉を温めるため念入りに行った。普通は喉を庇って消耗しないようにやるのだろうが、私の場合は違っていた。歌って、歌って喉を開いて行く。リハーサルと本番の区別が無い。これはデビュー当時からのスタイルだった。その日は特に力を入れた。リハーサル終了間際でようやく声は出始めた。そのライブでは会場の真ん中から登場する演出になっていた。心中穏やかではないままライブは始まった。1曲目にオーディエンスのど真ん中で「同じ時代を」のフレーズをアコースティックギター1本で歌い、花道をエンドステージ中央に向かう。ところが、リハーサルで開きかけていた喉が開演までに冷えて元に戻ってしまっていたのだ。声が出ない。ライブは始まっている。だが、そんなことで躊躇してはいられないのだ。オーディエンスが見守る中、ライブは進んで行った。声が思うように操れない。それでもシャウトした。ステージ上で与えられた唯一の防御策は「怯まないで歌う」ということだけなのだ。最悪のコンディションだが、時間の進む方向どおりにシャウトを続けた。翌日も同じように酷かった。あのライブを作品としてリリースしたのは、それでも気迫が乗り移っていたと確信したからだ。

あばよ
柔らかい音を織ってメロディと奇妙な出会いをする青春の意味を計ることが出来ない人には世情の汚れを落とす淡い石鹸と優美な希望をあげよう僕は歌うたいだ僕は歴史の不透明だ僕の内部は空洞でいつもからんころんと鳴っているそれがどうしたひもじいか「いつまでも青春」なんてフレーズは「バケツをひっくり返したような雨」の使い古された比喩のようで恥ずかしい僕の名は確実に歳をとる未来の名がいつか屈辱されたときには「おーまいがっと」と呟けばいいさどこまでやれるか誰かが決めることじゃない夕焼けに染まった夕立あとの地面に昇り立つ陽炎の中で「あばよ」と笑って去ればいい

4.ピンチとチャンス

風邪はライブの2日間だけだったかのように、その日が過ぎると嘘のように治った。6日後の横浜アリーナでは、いつもどおりのライブができたが、体力の消耗が激しかった。必要以上に力まないと声が出ないのだ。自分自身に違和感を感じながらのライブだった。そして、ツアーは終了。数日間の休養を取った後、CHAGE&ASKAの楽曲制作に入った。ピアノの前で声を出し始めるのだが、ハイトーンが出ない。いつもは力むことなく「ラ」まで声が出るのだが、どんなに頑張っても「ファ」までしか出ない。こんな日もあるのかと、その日は作曲を諦めた。翌日も、そして更に翌日も事態は変わらなかった。声が出ないのだ。一般のカラオケで歌っている人の方が勝っている。私は病院へ向かった。多くの声楽家などが訪れる病院だ。「先生、ポリープはありませんか?」できるだけ慎重に視てもらおうと、大きく口を開け声帯を開け閉めした。「無いねぇ。少し赤いけど問題は無いよ。」「右側が完全に利き声帯だね。左右の声帯のバランスが非常に悪い。」それは以前から知っていた。長年の歌手生活の中でそれがさらに進んでいたのだ。思い当たることがある。昔から高音を出そうとすると、左に顔を傾けるのだ。これは単なる癖だと思い込んでいたが、右側の声帯を使うための無意識な動作だったようだ。右側の発達に比べ、左の声帯が極めて幼いということだった。先日の風邪を押した無理なライブの所為で、右側の声帯がやられてしまったのだ。もう元には戻らないかもしれないと気弱になった。そして、声の出ない日々は続いた。

その昔、ギターで作曲が出来なくなってしまったときに、同じような思いをしたことがある。あのときは、どうせ活動を諦めるのだったら悔いの無いよう、作曲法を変えてみようと思い、弾けもしないのに鍵盤楽器を買ったのだ。鍵盤ではコードが分からないため、指先2本で音を弄った。それから少しずつ鍵盤を押さえる指の数が増え、やっと作曲出来るくらいに動かせるようになった。初めてピアノで作った曲が「ムーンライトブルース」だ。その後、慣れてくると楽曲の量産体制に入った。調子の良し悪しなど関係なく、どんな時も曲ができた。ギターでは上手く聞こえなかった分数コードが、はっきりと聴こえるのだ。これは大きかった。少しずつ鍵盤が分かってくると、見たままがコードだというところに落ち着いた。ギターでは曲が出来ないというピンチを鍵盤でチャンスに変えたのだ。声の出ないピンチをチャンスに変える方法はないかと考えた。キーを下げなければ、いままでの歌は歌えなくなってしまう。どんなに首を傾けても出ないものは出ない。

「右側か・・。」その時、頭の中で閃いたものがあった。「左の声帯が幼いって言ってたよな・・。」幼いなら、成長させれば良い。早速、その日から左の声帯で歌う練習が始まった。まずは普通に歌ってみる。すると、確かに右側から息が出ているような感覚があるのだ。意識しながら歌う。なんとか左にシフト出来ないものかと躍起になった。それを初めて5日目。ようやく左で歌う感覚が生まれてきた。ただ、声が細いのだ。喋る時も意識して左の声帯を使った。成長していないだけに、音程が取りづらい。気がつけば右の声帯で歌おうとしている。それを意識して左に変える。そんな日々が続いた。翌年の99年にはCHAGE&ASKAの20周年を迎えることになる。どうしても、左の声帯を成長さなければならないのだ。高い声が出ている時は左の声帯を上手く使っている時。馬力のある低い声の成分を感じる時は右の声帯を使っている時。20周年はファンクラブ会員限定のアコースティックライブとなった。声の調子がそうさせた訳ではない。アンプラグドのあの感触を今一度というコンセプトだった。99年6月に行われたライブだったが、リハーサルの時には両方の声帯が鳴ってしまう状態だった。それでも左で歌うことが随分自然になってきている。オーディエンスは敏感だ。この年のライブ頃から私の声の調子がオーディエンスに語られるようになって行った。私が左の声帯にシフトしていることを知っているのは極身内の人間だけだ。同99年「電光石火」。2000年、福岡で行われた「COUNTDOWN 千年夜一夜ライブ 」など、発声を模索しながらのライブが続いた。

僕のジャム
簡単なことさ喜びと怒りと哀しみと楽しみそれから手のひらいっぱいの夢と希望を大きな日曜日に放り込んでゆっくりゆっくりかき混ぜる月曜のへたを取り火曜に砂糖をまぶして火にかける少々の水曜のアクが浮かんできてもアクは気にせず木曜の鍋で沸騰させる金曜にレモンを加え土曜の瓶に詰め込んで蓋をするあとは幸せ考えてたらほら僕のジャムのできあがり簡単なことさ

5.韓国ライブ

2000年。韓国でライブをやることになった。突然、韓国政府から招待されたのだ。日韓の音楽の架け橋になるアーティストをずっと探していたのだと言う。韓国側の関係者は、数年に渡り日本のいろんなミュージシャンのライブに足を運んでいた。私たちに白羽の矢が立ったのは、福岡のCOUNTDOWN LIVEだった。私たちは韓国政府に招かれ、大統領官邸「青瓦台」で大統領令夫人と会うことになる。「コンサート頑張ってくださいね。応援していますよ。」優しい眼差しで声をかけてくださった。当時、日本と韓国は2002年に合同で開催されるサーカーのワールドカップを成功させるために国同士が動き出した。それまで歴史問題で距離のあった両国ではあったが、スポーツや音楽などの民間交流にそれは託された。政治では埋まらない溝を文化で埋めようという試みだったのだ。私には以前から不思議に思っていることがあった。私ひとりではそうはならない。CHAGEひとりでもそうはならない。しかし、二人が並ぶと相手が扉を開いてくれるのだ。中国でもそうだった。放送局のトップと面談したときだった。トップは三人だけで話がしたいと言う。スタッフも通訳も席を外してくれと言う。私たちはひとつの部屋へ誘導された。何故三人だけなのだろうか。ソファに座る。そして、とても穏やかな口調でこう言われたのだ。「私は日本人が大嫌いです。」流暢な日本語で冒頭から否定されたのだ。私たちは息を飲んだ。どうにも反応が出来ない。私はきゅっと口を結んで笑顔を返すのがやっとだった。歴史は根深い。話は続けられた。どんなことを言われても真摯に対応しようと思った。今、試されている。アジアに試されている。

「これは生理的なことだからしょうがない。しかし、あなたたちだけは不思議とそうじゃない。私にも分からない。中国でのコンサートを全面的に応援します。」椅子から立って握手を求められたのだ。日に照らされた荒れ地に恵みの雨が降り注いだような瞬間だった。最初にやるのは本当に大変だ。相手国のスタッフとコミュニケーションを取りながら人間関係を一から積み上げて行かなくてはならない。マスコミも味方につけなければならない。勇気と覚悟、情熱と敬意で臨んだ。しかし、何よりも懸念しなくてはならないことがひとつあった。失敗するかもしれないということだ。ライブは出来ても成功は約束されていない。常にリスクに対するダメージコントロールを考えながらの異国ライブだった。失敗はその後の日本での活動に大きく響いてしまう。いつも、いつもスタッフの苦労は計り知れなかった。間もなく韓国が門を開きそうだという情報は入ってきていたが、乗り越えるバリケードは高いだろう。これまでの苦労を考えると、韓国ライブに関しては手を挙げる気持ちにはなっていなかった。寧ろ、誰かが敷いてくれたレールの上を後から走って行くことを望んでいた。かける労力も金銭も、圧倒的に楽だからである。ところが、前触れも無く韓国政府に招待され、我々が赴くとその場で日韓の親善大使に任命された。二度目に訪韓した際には、日本の音楽協会が足を運んでも会えなかった、南北会談の影の立役者パク・チオンさんが我々を迎えてくれたのだ。取材の最中などにも顔を出してくれた。自分の足は自分できちんと使わねばならない。韓国女性基金団体が、私たちCHAGE&ASKAを見つけてくれたことに心から応えようと思った。

女性基金団体と言えばこういうことがあった。取材の時だった。ジャーナリストが慰安婦問題を突きつけてきたのだ。一瞬言葉を失った。その時だった。女性基金のスタッフが咄嗟に飛び込んで庇ってくれた。「取材では慰安婦問題には触れない」という約束が交わされていたのだ。しかし、突発的に起こった出来事を打ち消すことは、もはやできなかった。発言を求められる場がそこに生まれてしまったのだ。我々はクレームをつけるスタッフを制して、世代の歴史観を自分たちの言葉で説明した。話が終わった時だった。スタッフのひとりが涙をポロポロ流しながら手を握ってきたのだ。春先のような手の温もりだった。帰国すると、我々のプロデューサーである渡部はその足で日本音楽事業協会。通称「音事協」へ報告に行った。それまで「音事協」では韓国音楽協会と一緒になり、韓国ライブを実現させる第一号日本人アーティストを数年間かけ、水面下で探し合っていたのだ。取り分け韓国は慎重になっていた。

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濡れ猫さん

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