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戦国武将のお墓所在地一覧

先祖の墓参りは行きましょう。

更新日: 2016年04月26日

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the_samuraiさん

戦国武将達を供養するための建造物は日本全国に数多く存在します。ここでは実際に埋葬されたとされる場所(伝説を含む)をピックアップしてまとめました。

織田信長(阿弥陀寺)

明智光秀による本能寺襲撃の報を聞いた阿弥陀寺住職清玉上人はすぐさま本能寺に向かい信長の遺骸を裏手の藪で火葬しその骨を持ち帰り埋葬したと伝えられている。

坊丸、力丸の三兄弟、更に猪子兵助ら12名の家臣の墓もある。本堂には信長・信忠の木像も安置されている。

お墓、供養塔も含めると機内を中心に20箇所以上で供養されています。本能寺の業火の中、遺体見つからなかったと云われる信長ですが可能性としては阿弥陀寺が一番高いのではないでしょうか。

豊臣秀吉(阿弥陀ヶ峰山頂)

遺体は、遺命により。ここ阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)中腹に葬られ、墳上には祠廟、山麓には社殿が建立された。

江戸幕府の意向による豊国大明神の神号の剥奪に伴い、仏式で祀ることと定められ、秀吉の遺体そのものは霊屋とともに山頂に遺されたとされる。

1897年(明治30年)には神社境外地の阿弥陀ヶ峰山頂に伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建てられ、翌年、豊太閤三百年祭が大々的に挙行された。(この工事の際、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見された。遺骸は丁重に再埋葬された。

徳川家康(久能山東照宮、日光東照宮)

家康は死に臨み「遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し神として祀ること」と遺言した。

「勧請せよ」(分祀せよ)と言い残したのであって。遺体を移せとはなく、家康公は久能山東照宮に眠っている。

家康の霊柩は大僧正・天海の指揮によって、3月15日に久能山を発し、三島、小田原、中原、府中、仙波、忍、佐野、鹿沼という経路で運ばれ、4月4日に日光山に到着。4月8日、奥院に埋葬され最初は木製の宝塔が建てられた。という道中の記録も残る。

真相はどちらかの墓所を発掘しなければ分かりませんが、それが行われる事は無いでしょう。

武田信玄(恵林寺)

駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、1576年に勝頼により恵林寺で信玄の葬儀が行われているために遺骨は恵林寺で埋葬されていると云う。

遺言に従い、死後3年後に恵林寺で葬儀が行われており遺骨は恵林寺に埋葬されていると考えられる。

信玄正室三条夫人の菩提寺として知られる。
甲府代官により発掘が行われて信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられている。

有名な「亡骸は甲冑を着せて諏訪湖に沈めよ」は、『重臣の協議により実行されなかった』と甲陽軍艦にあります。

上杉謙信(上杉家廟所)

骸は漆を塗り甲冑を着せて埋葬され、上杉家の移動に伴い、最終的に米沢城本丸に建立した御堂に謙信の霊柩を安置したとされる。

遺骸は甲冑を身に纏った姿で甕に納められ、甕には漆を流し込んで固めてあるという。上杉景勝が越後から会津に移動の際も霊柩を移動させ、その周囲にある一片の土も運ばせたと伝えられる。さらに米沢に至る上杉家の領国代えの時も謙信の霊柩は選ばれた僧侶その他の者により厳重に守られ運ばれた。

謙信は生前、真言密教に深く帰依し自らも権大僧都の位を得ている。その関連からか謙信の遺骨は高野山にも納められており、米沢にあるのは分骨であるともいう伝えもあるが、これは景勝以降の藩主が火葬した遺骨を高野山に納めたことからの誤伝である。

伊達政宗(瑞鵬殿)

江戸の桜田屋敷で生涯を終え、その日の夜に江戸を立ち、遺言により仙台経ヶ峯に埋葬され、墓室の上には瑞鵬殿が建立される。

1974年には発掘調査が行われ、遺骨の学術的調査から身長は159.4cmであることや、 遺骸毛髪から血液型がB型であることが判明した。また、副葬品として太刀、具足、蒔絵を施した硯箱、鉛筆、懐中日時計兼磁石、懐中鏡、煙管、銀製ペンダント、黄金製のロザリオなど、30余点が確認されている。

政宗の遺骨は防腐剤として棺内に詰められた石灰カルシウムの影響で保存状態は良好でしたが、隻眼であったことの立証はできなかったようです。

毛利元就(吉田郡山城跡内)

墓所は吉田郡山城の麓の大通院跡にあります。菩提寺は山口市の洞春寺。吉田郡山城の麓には、元就火葬の地もあります。

中国地方をほぼ平定した元亀2(1571)年、75歳で没しました。毎年7月16日には、現在の71代目毛利家当主を招き、墓前祭が行われます。

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