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『真田丸』寺島進さん演じる【出浦昌相(いでうら まさすけ)】ザクっとまとめ。

寺島進さん演じる出浦昌相(いでうら まさすけ)がシブすぎる。

更新日: 2017年03月10日

釣り丸さん

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信濃国埴科郡坂城城主。官途は対馬守。横谷幸重と共に真田昌幸、真田信之に仕えた忍者集団の頭領の双璧として並び称された。最初武田晴信、次いで森長可を経て真田昌幸に仕えたとされる。吾妻奉行を拝命し、麾下の吾妻忍びたちを統率して活躍した。

出浦 盛清(いでうら もりきよ、天文15年(1546年) - 元和9年(1623年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。真田氏の家臣。対馬守。信濃国埴科郡坂城町出浦の生まれ。別名は昌相(まさすけ)ともいう。

『真田丸』出浦昌相役 寺島進

甲斐の武田家治下で、甲州透破の支配者。敵城へ配下の透破を潜入させる際、それより先に、自分が忍びに入って探索し、配下の透破の報告の正確度を確認するほどベテランだった。

武田氏滅亡後は森長可に属し、本能寺の変の後、長可が海津城から撤退を図った際には、長可配下の信濃国衆たちはほぼ全員が長可を裏切ったが、盛清は唯一撤退に協力した。長可は深く感謝し、別れる際に脇差を与えた。

その後、天正11年(1583年)から真田昌幸・真田信之に仕え更級郡上平城主を務めた。横谷左近とともに吾妻忍び衆を統率して活躍。天正18年(1590年)6月、豊臣秀吉の関東平定では真田軍として北条方が守る忍城攻めでも奮戦した。

松代藩主・真田信之のもとでは、武者奉行を務め、1597年には岩櫃城代にもなった子の出浦幸吉が1000石にて家老となっている。

関ヶ原の戦いのあとは、上州吾妻郡の長野原に住み、1623年に78歳で死去。

一説によると、出浦盛清は、戦国最強とも名高い武田信玄を二度破ったと伝えられる村上義清の弟とも伝えられています。

部下より先んじて自ら敵情を視察するなどし、また、見てきたとウソをついた素破を見破ったとする逸話も残されている。

霧隠才蔵のモデルという説もある

【出浦対馬守盛清~子孫 】

出浦対馬守盛清の子孫
「出浦氏は清和源氏村上氏の支族で更級郡村上村から出ている。左衛門尉清種の長子下野守清正が坂城出浦氏となり、次子対馬守盛清が松代出浦氏の祖である。そのあとは、(※盛清から5代の系図が書いてある)
「真武内伝付録」に「出浦対馬は村上義清の一家なり。甲州崩れの後、松城(まつしろ ママ)にあって森武蔵守(註:森長可 海津城主)信長公御生害につき、川中島地侍心変じて武蔵守退き兼ね候ところを、対馬一人味方を致し武蔵守を猿ヶ番場峠まで送る。武蔵その志を感じ形身にとて脇指を賜る。その後房州様(安房守昌幸)へ随ひ数度覚あり。

忍の城にて仕寄せ工夫あり。」とあるのは有名な話である。また「真田家戦功録」に
「出浦対馬守甲州信玄へ給仕せり。その頃スッパを預かり、他国の城へスッパを入れけるに、そのスッパより先に城内へ忍び入り城内の様体つぶさに知りて帰りけるに、スッパは行かずして偽りて行きて見たるよし云ひける時、対馬スッパの不行事を見届け、その身の行きたるしるしを顕しけるにぞ手柄の程顕れしとなり。対馬は更級郡上平の城主(註:出浦城)にて壬午(註:天正十年)の頃は上総守と云ひ後に対馬と改む。天正十一年末に御家へ来りし者なり」とある。天正十一年九月十二日付の真田昌幸から上総守宛ての「武石之内三十貫文進置候」という宛行状がある。

『真田丸』真田信之役 大泉洋

対馬守幸久の子を半平幸吉といい、真田信之に仕えて千五十石の大身で、信之の信任が厚かった。これが次子織部幸生六百石、第三子五左衛門安豊七百石(寛永十年分限帳による)の二流に分れた。しかし、織部系は子の新四郎が十一歳で死亡して後継者がなく断絶。安豊の子半平幸重が嫡流の名跡を継いだ。廃藩時代の禄高は六百石であった。子孫は松代町に現存しない。」

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釣り好き38歳サラリーマンです。