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「正義」の意味と使われ方まとめ【辞典・事典から見る】

国語辞典や専門辞典など複数の辞書を引いて書き抜きました。

更新日: 2016年02月24日

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pentascaleさん

国語辞典

せい-ぎ【正義】
1 [荀子正名] 正しいすじみち。人がふみ行うべき正しい道。「―を貫く」
2 [漢書律暦志上] 正しい意義または注解。「尚書―」
3 (justice)ア 社会全体の幸福を保障する秩序を実現し維持すること。プラトンは国家の各成員がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和があることを正義とし、アリストテレスは能力に応じた公平な分配を正義とした。近代では社会の成員の自由と平等が正義の観念の中心となり、自由主義的民主主義社会は各人の法的な平等を実現した。これを単に形式的なものと見るマルクス主義は、真の正義は社会主義によって初めて実現されると主張する。現代ではロールズが社会契約説に基づき、基本的自由と不平等の是正とを軸とした「公正としての正義」を提唱。実篤、荒野「愛なき―は恐るべし、同情なき―は呪ふべき哉」 イ 社会の正義にかなった行為をなしうるような個人の徳性。

せい ぎ [正義](名)不正をこらす、正しい道理。「社会―・―感〔=正義を重んじる心〕・―漢〔=正義感の強い男〕・―派」

[せい-ぎ 正義] 人として行うべき正しい道義。「正義を守る」「正義感が強い」「正義漢」

せい-ぎ【正義】
1 人の道にかなっていて正しいこと。「―を貫く」「―の味方」
2 正しい意義。また、正しい解釈。「四書―」「其実はあたの語の―に非るなり」<西村茂樹・明六雑誌三三>
3 人間の社会行動の評価基準で、その違反に対し厳格な制裁を伴う規範。
[類語]道義・人道・人倫・大道・義・仁義・道徳・倫理・徳義・世道・公道・公徳・規範・大義・徳・道・モラル・モラリティー

せいぎ【正義】人が守り行うべき正しい道義。物事のそうであるべき道理。「社会―」

せい-ぎ【正義】
1 人が行うべき正しいすじみち。正しい道理。「―感」「―を行う」
2 ことばの正しい意味。正しい意義。

せいぎ【正義】<名>人がおこなうべき正しいみち。道理。「―を重んじる人・―をつらぬく・―漢」

専門辞典・用語集

正義は、倫理学の理論や政治哲学にとっての基本的な概念として、公正(または公平)の概念や<平等(equality)>、とりわけ平等な人間を平等に扱うという法的命令と関連している。アリストテレス(C.Aristotle, 384-322BC)以来、(1)誰が何を得るべきかという問題に関する分配の正義と、(2)社会問題処理における個人の取り扱い(とりわけ違反についての処罰)に関する矯正的な(あるいは減刑の)正義とを区別するのが慣例的である。分配の正義の概念は、社会的正義として現代の社会哲学と政治学において重要である。分配の正義の近代理論は、アメリカの哲学者ロウルズ(J.Rawls)によって A Theory of Justice, 1971 『正義論』において提唱されたが、その中で彼は平等の問題を論ずると同時に、<個人主義(individualism)>をも擁護した。彼の一般的な〔分配と正義の〕定義は、「自由とチャンス、収入と富、自尊のための基盤といったあらゆる社会的価値は、一部のあるいはすべてのこれらの価値の不平等な分配があらゆる人の利益になるのでない限り、平等に分配されるべきである」(1971,p.62)というものである。2つの例を挙げることができる。鉄砲の所有を禁じる法律は、あらゆる人の利益になりうる。一方で、社会は生命の平等な安全を維持するために、警察に鉄砲の不平等な分配をするのである。第二に、一定の年齢以下の若者にオートバイの運転を禁じるのは、「あらゆる人の利益」となりうる。これらの例では、個人の自由と社会的正義との間に緊張がある。自由を強調する正義観は、ノジック(R.Nozick)によって、Anarcy, State, and Utopia, 1974『アナーキー、国家、ユートピア』において提示された。その中では、私有財産、個人の権利や自己決定権を支持する議論がなされている。ノジックにとって、国家はできるだけ小さいものであるべきで、個人的自由の享受を妨害しない限りで正当化されうる。
(『新しい世紀の社会学中辞典』ミネルヴァ書房、2005年06月10日、pp.219-220)

せいぎ【正義】
正しいすじみち。人の行うべき正しいこと。何が正義かについては、普遍的正義の発見への努力も行われてきたが、時代により、また依拠する立場により、それぞれ異なり、法令上も特定の内容を示すものではない。例、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」(憲九)、「原判決を破棄しなければ明らかに正義に反すると認めるときは、判決で原判決を放棄することができる」(刑訴三九七 2)

(pp.657-658)

正義[justice]
法的な手続きに従い、適切な懲罰をかして、葛藤や不一致を偏りなく公正に解決すること。⇒共通感覚の公正、手続き的公正、修復的司法

正義 〔ギ〕dikaiosynē〔ラ〕justitia〔英・仏〕justice〔独〕Gerechtigkeit
【古代】ヨーロッパの思想では、正義の観念は古代ギリシア哲学の流れの中で極めて精緻な理論的展開を遂げ、これに*キリスト教における「義」の観念が加わって、近現代の諸正義論の基礎を形成した。
[ギリシア思想]  人類の常識に相応しく、*ピュタゴラス学派は「正義」を「応報」として規定したが、この問題に正面から取り組んだ最初の人は*ソクラテスである。かれは「正義」を「国法に従うこと」と名言している。但し、国法が不十分であると思われる場合には、それの改善へと「説得(peithō)」の努力をせねばならない。しかし、その説得が成功しなかった場合には、非合法活動が許容されるのではなく、あくまでも「国法の遵守」に踏み止まらねばならぬ。これが、ソクラテスの基本的立場である。だが、更に、ソクラテスは、正しい人はいかなる場合でも正しい行為を為すべきである、という立場をとった。それ故、相手から不正を蒙っても、仕返しに不正を加えてはならない。つまり、かれは復讐の禁止という、古代世界においては他に*イエス・キリストのみが語った、革命的な倫理に到達していたのである。これらの理由により、かれは脱獄を拒否して刑死したのであった。
 ソクラテスに続く*プラトンは*『国家』篇においてさらに明確な正義の理論を構築した。正義は一個人においても、個人の集合体である*国家においても、同じ構造をもつが、その大原則は「各自がそれぞれ己に本来的(kata physin)な仕事を為す」という点にある。すなわち、政治家は国民の善を配慮し、兵士は国を守り、農民は穀物を生産することが、正義の基礎であある。各人が、余所事に手を出さず、己に本来的な使命の遂行に専念するとき、国家は調和的になり、その活力を最大限に発揮し正義を実現する。同じ構造は一個人の正義につても妥当する。すなわち、人間は、その最下層に「欲望的部分(epithymētikon)」、その上に「気概的部分(thymoeides)」、最上位に「理性的部分(noēikon)」をもつ存在者だが、これらの三部分が無秩序に自己主張をすれば、無抑制状態が現出する。これに対し、それぞれの部分が本来の使命を全うし、理性が命令し、気概がこれを補佐し、欲望がこれに服従するとき、調和的な力強い、正義の人が実現されるのである。
 だが、後世の性議論に決定的な理論的基礎を与えたのは*アリストテレスである。かれは、ギリシア人の伝統に則り、正義をあらゆる*徳を包括する「完全徳」であるとしたが、この主張により、「正義は徳の対他的(pros heteron)活動である」という革新的な見地を開いた。その意味は、すべての徳は個人における行為能力であるが、これが他者関係において活動するとき正義の性格を帯びる、ということだ。この意味で、正義とは「共同体的な徳(politikēaretē)」に他ならない。これが広い意味での正義である。他方、狭い意味での正義は「平等(ison)」であるが、これが後世に決定的影響を与えた部分である。アリストテレスは平等には二つの意味がある、と言う。一つは算術的平等だが、これが適用されるのは、各人にはそれぞれの価値に応じて財貨(富、名誉、地位など)を配分すべし、という財の配分の領域においてである。ここにおける平等とは、各人における価値(能力)とそれに応じた財貨の取得量の比率が等しい、ということに他ならない。これを<配分的正義(dikaion dianomētikon)>と言う。これは冷厳な能力主義の正義論で、以降長らくヨーロッパの思想に影響を及ぼしたものである。
 *ストア派では、自然における指導的原理は*ロゴス(理性)であり、それが*神であるが、人間にとっての唯一の善はこの理性に調和して生きることであった。それ以上に、かれらは正義についての特別な理論を展開していない。
[キリスト教]
以上の古典古代の正義論に対して、キリスト教は正義の問題を「義化(dikaiōsis)」の問題として異なる角度から光を当てた。それは、能動的な意味では、神が人間を義とする行為を指し、受動的な意味では、その神の働きかけにより人間が*罪の状態から義の状態へ移行せしめられたその変化を、言う。その神の働きかけとは、キリストがあらゆる人の罪を背負って犠牲となり、それによって人を己の罪に相応しい罰から解放した、その行為のことである。この神の身代わりにより、人はあたかも正しい者であるかの如くに扱われうることとなったのである。
〔岩田靖夫〕

(『岩波哲学・思想事典』岩波書店、1998年3月18日、pp.891-892)

中世の正義論は、ストア派の自然法思想とアリストテレスの倫理・政治思想をキリスト教的観点から統合しようと試みた*トマス・アクィナスの正義論に代表されよう。トマスは永遠法―*自然法―実定法の三層から成る法思想を基に、人々の共通善(bonum commune)が直接の対象となる法的正義をイパン正義、他の人格が対象となる交換的正義(justitia commutative)と分配的正義(justitia distributiva)を間接的な正義と規定した。このようなトマスの正義論は、現代に至るまでカトリック的社会理論の骨子となっている。

(『岩波哲学・思想事典』岩波書店、1998年3月18日、p.892)

【近代】これに対し、近代に入ると、正義は人間相互の*契約あるいは黙約によって成り立つという見解が有力となる。まず、*ホッブズにとって、公的権力が存在しない人間の自然状態において正義など存在せず、万人が万人に対して闘う状態が支配する。そこで人々は共倒れにならないよう相互契約を結んで公権力を成立させるように強いられるが、その相互契約を守ることに正義の本質があるとみなされるのである。ホッブズにとって、正義は言わば、*自己保存という至上価値のための手段であった。次に、*ロックにとって、正義は、*自由、生命、財産から成る所有権(property)を保証するために、人々が相互契約によって成立させた公的な政治や法一般のあり方として捉えられた。特に、人間の*労働によって得られた財産の保証としての政治や法を強調するところに、ロックの正義観の大きな特徴が存在する。このロックと対照的に、私有財産によって人間の不平等が生ずると考えたルソー*によれば、正義は、人々の私利私欲を排した公的意思たる一般意志の合意からのみ生まれる。他方、*カントにおいて、正義とは、人々のアプリオリの意志から生まれる公民体制で実現する根本規範に他ならない。
 以上の*社会契約説と異なり、社会のルールや権威が人々の共通の利害感情に基づく慣習的な黙約(convention)によって承認されると考えた*ヒュームは、正義を、人々が身近な状況で感ずる公的利害ないし効用についての人為的徳とみなした。そして、このようなヒュームの正義観は、正義を自然的自由の社会経済体制を支える大黒柱とみなすA.*スミスや、正義を社会構成員全体の*快=*幸福を最大化することとみなす*功利主義に受け継がれていく。なお、同じ功利主義者でも、*ベンサムと違い、快を質的なものと考え、弱者救済のための分配的正義をも考えたJ.S.*ミルにあっても、正義は*最大多数の最大幸福という根本規範から演繹されるという信念は貫かれている。
 他方、*マルクスを含めた19世紀の*社会主義者たちは、正義を専ら社会的不平等の打破ないし是正という観点で捉えていたと言える。たとえ正義の名を用いていなくとも、彼らは*資本主義が生み出す*階級間の不平等や富の偏在を社会変革によって乗り越え、平等で公正な社会を実現することに正義の本質をみていた。

(『岩波哲学・思想事典』岩波書店、1998年3月18日、pp.892-893)

【現代】*社会哲学のテーマとしての正義は、1971年の*ロールズの*『正義論』出版以来、再び一大争点となった。ロールズはこの書で、最大多数の最大幸福を根本規範とする功利主義では、個の権利や自由が十分保証されえないと批判しつつ、互いに相手や自分の社会的地位に関して無知のヴェールにおおわれた人々の合意によって採択されうる正義の二大原理を次のように呈示した。すなわちそれは、各自が最大限に平等な政治的・思想的自由を持つことの保証(第一原理)、および、社会的経済的不平等は、それが最も不遇な人々の利益を最大化するよう、また機会均等の原則のもとですべての人々に開かれた職務や地位に付属するよう、配備し直されねばならない(第二原理)というものである。こうしたロールズの考えは、平等主義的なリベラリズムの正義論と呼びうるものであり、ロールズ自らがカントとの親近性を表明している。それに対し、1974年に出た*ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』は、ロック的な所有権思想に立ち返るかたちで、個人の財の取得とその正当な移転および権利侵害というレベルで正義を論じ、それを正義の権限理論(entitled theory)と呼んだ。こうした立場からノージックは、ロールズが重視した分配的正義を実現困難とみなしたが、その発想はロールズと等しく社会契約説的なものであった。
 このような発想に対し、1980年代に入ると、コミュニタリアン(共同体論者)と呼ばれる一群の思想家たちが異議を唱える。まず、サンデルやC.*テイラーによれば、ロールズの想定のように無知のヴェールにおおわれた人々の相互契約によって正義が成り立つという考え方は、人間が契約以前にすでにある特定の共同体の中で生活している点を看過したアトミスティックな人間像に立脚しており、現実性に乏しい。故に、そうした個人の権利実現を中心とした正義観ではなく、共同体の善や人間の責任や責務を中心に正義が論ぜられるべきと彼らは主張する。また、こうした見解とパラレルに、*マッキンタイアは1981年に出した『美徳なき時代』で、近代啓蒙主義的な正義論の復権を謳った。そして、1983年に『正義の諸相』を出版したウォルツァーは、正義がさまざまな共同体で異なる多元的な概念であること、また平等という概念も均質なものではなく複合的なものであることを説き、*多元主義的な正義論を展開している。
 以上の正義論をめぐるリベラルとコミュニタリアンの争点は、その後、政治の根源的主体としての自己(self)のあり方、国民国家における*マイノリティの権利、他文化主義の可能性、*ジェンダーなどの問題群との絡みで論ぜられることが多くなり、展望のひろがりをみせている。
〔山脇直司〕
〔文献〕岩田靖夫『ソクラテス』勁草書房 、1995;田中美知太郎『プラトンIV・政治理論』岩波書店、1984;岩田靖夫『アリストテレスの倫理思想』岩波書店、1985;ツィンマリ(山我哲雄訳)『旧約聖書の世界観』教文館、1990;荒井献他『総説新約聖書』日本キリスト教団出版局、1981;山脇直司『ヨーロッパ社会思想史』東京大学出版会、1992;W. Kymlicka, Contemporary Political Philosophy, 1990; S. Mullhall and A. Swift, Liberals and Communitarians, 1992.
(『岩波哲学・思想事典』岩波書店、1998年3月18日、p.893)

正義 (希)dikaiosynē
古代ギリシアにおける四つの基本的徳(元徳)の一つ。プラトンは『国家』において、理性・気概・情欲という魂の3部分はそれぞれ一定の役割を果たしてその完全性を得るべきであるとした。つまり、理性は知恵(siohia)の点において、気概は勇気(andreia)の点において、情欲は節制(sōphrosynē)の点においてそれぞれ完全性を得るが、なおその上に魂全体の徳として、これら3部分の正しい関係、すなわち完全な正義(dikaiosynē)が加わらなければならないとした。そしてこれら四つの徳はさらに政治の領域、国家(polis)の構造においてその独自な意味が明らかにされた。すなあwち、支配者階級、防護者階級、生産者階級がそれぞれ固有の徳としての「知恵」「勇気」「節制」をもって義務を果たし本文を守るとき、はじめて国家の生活は全体の完全な調和において「正義」の徳が実現されるとした。「正義」はプラトンによれば「各自がその分を果たして互いに相侵さないこと」(ta heautou echein kai prattein)にほかならないものであった。
 アリストテレスは正義を全体的正義と部分的正義とに分け、さらに後者を配分的正義と整調的正義とに分けた。全体的正義とは、人々を正しい事がらの実践者とするような状態、人々のするところを正しいようにさせるだけでなく、人々をして願望させるような性質の状態(hexis)、つまり究極的な徳であり、徳の全体を意味している。これに対し部分的正義とは、いろいろな徳のなかの一つとしての正義で、名誉や財貨などの配分における正義と、さまざまな相互の交渉において整調の役目を果たすべき正義がある。対他的な点で正義はすべての徳のなかで「自分のものでない善」であるとも考えられ、他人への関連においてみられる限り正義であり、無条件的にこのような「状態」としてみられる限り徳であるとしている。
<本橋>

(村治能就 編 『新装版 哲学用語辞典』 東京堂出版、1999年9月25日、pp.233-234)

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