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【沖縄の真実】これが正しい 普天間基地の歴史 ~「世界一危険な基地」になったのは・・・

【沖縄の真実】を届けます。 普天間基地移設問題。ちょうど普天間第二小学校が建設された頃(1969年)の普天間基地は、どんな状況だったのでしょうか。年代別の航空写真を見ながら普天間基地の歴史をいま一度検証し直します。

更新日: 2018年05月15日

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【沖縄の真実】をお届けします。
前回は、「普天間第二小学校の移転問題の真実」を書きました。

普天間第二小学校の開校された1969年には、普天間基地(普天間飛行場)は「世界一危険な基地」ではなかった。

普天間第二小学校が建設された頃(1969年)までの普天間基地は、だだっ広い空き地のような状況だったというのです。

今回は、1969年に普天間第二小学校が普天間基地に隣接して建てられた時代背景についてまとめてみます

まずは、1969年頃までの普天間基地の状況を見てみましょう。

戦前の普天間周辺

湧き水が豊かで多くの集落があった。

中頭郡役所が置かれ、主要街道が交差し、軽便鉄道が走った。

高山尚道さんが、当時の地図や航空写真をもとに描かれた。

宜野湾市史によると、1925年当時で、宜野湾や神山、新城など10の字(あざ)があり、9077人が住んでいた。

出典沖縄タイムス

戦前の宜野湾、普天間は、湧き水が豊かで県立農事試験場が置かれ、沖縄の農業の中心として、多くの集落が並ぶ豊かな農村地帯でした。
その規模は日本全国で比較しても屈指の人口を誇る大きな村であった。
 王国時代には国王が参拝した普天間宮があり、中頭郡役所が置かれる中部地域の中心地でもあった。
 沖縄の南北を結ぶ街道が交差し、沖縄県営(軽便)鉄道の駅が3つもある交通・流通の要衝でした。

なかには、「普天間は畑ばかりで人はほとんど住んでいなかった」などと言う者もあるが、すくなくとも当時の宜野湾村の人口は1万4000人(避難が始まっていた1944年10月)と、東京の調布町(調布市)や町田町(町田市)よりも、埼玉の所沢町(所沢市)よりも多かった。まずはそれらの市民に「戦前に人は住んでなかっただろ」とケンカを売ってから来てもらいたいものだ。

普天間基地建設が始まったのは1945年の沖縄戦の最中です。
上部の整然と建ち並ぶのが米軍の兵舎。
樹々に囲まれた民家が集まっているのが、沖縄戦が始まるまで住民が暮らしていた集落。
これらもブルドーザーでつぶされた。

沖縄のお墓は、丸い形の「亀甲墓」と、四角い家の形をした「破風墓」があります。
平民の墓でも10m四方くらいの大きさがあります。
お墓も多くは破壊されましたが、残っている墓には、今でも基地司令官の許可を受けて墓参りがなされています。

普天間基地建設は国際法上許されるものだったのか

沖縄戦の最中の6月17日に、1176工兵部隊が「2本の滑走路」を持つ日本本土爆撃のB29爆撃機の出撃基地として建設を開始した。
 しかし、終戦を迎えたため8月23日に、1本目の滑走路の完成を待たずに工兵隊は任務を解かれた。

出典関東学院大学教授 林博史

野っぱらに未完成のままの1800mの滑走路だけが残された。

 1953年に朝鮮戦争のために滑走路の再整備が始まるまで、フェンスもないだだっ広い原っぱとして放置された。(後述のようにフェンスが設置され出入りが制限されたのは1970年代になってから)
 ただそれでも「軍用地」として接収されているのであるから、住居を建てたりは許されなかった。畑を作ること(黙認耕作地)だけは許されていた。

普天間基地(普天間飛行場)は
そもそも、この基地建設は国際法上許されるのであろうか。

戦時国際法であるハーグ陸戦法規には、戦闘状態でも、敵国の民衆の財産権は侵害しない、戦闘が終わったら速やかに返還するとの規定があります。

「戦争ノ必要上万已ムヲ得サル場合」に、例外的に「敵ノ財産ヲ破壊シ又ハ押収スルコト」が認められるという条項を根拠に、米軍は普天間基地などを建設しました。

ならば、戦闘行為が終了した後に、あるいは日本が降伏した後に速やかに返還されなければなりません。
普天間基地の建設などはそもそも国際法違反の疑いが強いのであって、違法な民有地の強制接収です。

(国際法は詳しくないので、少しづつ勉強しながら補訂していきます)

普天間基地完成後からの歴史

さらに、普天間基地完成(未完成だが終戦で工事中止)後から順を追ってみていきます。
 まず、沖縄戦において嘉数の戦いでも知られるように一帯は激戦地となり、ことごとく破壊を受けました。住民は自然壕(ガマ)などに避難していましたが、幸いにも日本軍が早めに撤退したガマでは、集団自決せずにアメリカ軍に投降した住民達は強制収容所へと連行されました。
最初は「野嵩収容所」に集められましたが、那覇や南部で捕まった住民も集まり水が不足してくると北部の収容所へと移動させられました。
 普天間基地は、沖縄戦の最中から建設が始まりましたが、日本の降伏により、未完成でほとんど利用されないまま、1953年の朝鮮戦争まで放置されます。
 その間に、住民が、収容所から解放されて戻ってきました。

 戦争が終わって沖縄の住民が、強制収容所から解放されて戻ってみると、家も畑もお墓も何もかもが米軍基地になっていました。先祖伝来の土地が、米軍基地になっていました。
「平らな土地と水」があるところは、ことごとく米軍基地になっていました。

 好きなところに勝手に家を建てていいというならともかく、それぞれの土地には所有者がいる。好き勝手に移住できるはずもなかった。戦前に同じ村の住民だったからこそ米軍に土地を奪われた人にも譲り合って、基地にされなかった土地で共同して暮らし始めたのであり、よそから来たわけでない。戦前に住んでいた村に戻っただけである。
 さらに、住民の不満が高まってくると、米軍は集落ごとに南部や北部の「指定地」への集団移住を強制し始めた。

1950年の朝鮮戦争では、滑走路が拡張再整備されたものの、朝鮮半島から遠すぎたため普天間飛行場は「決定的な役割を果たせない」として利用は限られた。

ベトナム戦争でも、ベトナムへの補給は米国本土から船で直接であったので、普天間は兵站にも使われず、爆撃機の出撃基地にもならなかった。あくまで嘉手納の補助飛行場にすぎなかった。

朝鮮戦争のために1953年に(未完成のまま終戦を迎えていた)滑走路が拡張再整備されました。
しかし、朝鮮半島から遠すぎてその目論見ははずれました。

 1960年代後半のベトナム戦争では嘉手納基地からはB-52爆撃機が、連日のようにベトナムへ向けて飛び立っていた。
 ジェット機の時代となって嘉手納基地周辺ではひどい騒音であった。嘉手納基地では爆弾を満載したB-52爆撃機が、核兵器も貯蔵された弾薬庫に墜落するという事故まで起こっていた(この事故が本土で報じられるまでは、本土の人は嘉手納基地のことすらほとんど知らなかった。この報道で沖縄からベトナムへ出撃していることを知った本土では、沖縄の返還を求め米軍基地を閉鎖すべきという運動が起こる。米軍に統治された沖縄ではそうした運動はすぐに鎮圧されたが)。

 ところが、普天間基地の滑走路は、B-52爆撃機の離陸には足りなかったし、爆弾装てん施設や弾薬庫もなかったので使われなかった。
 滑走路の長さは戦闘機の離着陸に足りたが、普天間からは朝鮮半島にもベトナムにも届かなかったし、爆撃機同様に爆装するための施設もなく使用できなかった。
 ベトナムへの補給兵站基地にもならなかった。

 ただ、ベトナム戦争とともに空中給油機部隊(VMGR-152)が岩国基地から普天間基地所属となったが、ベトナム戦争中の実際の運用はベトナムのダナン空軍基地が中心となったので、これも普天間は利用されていない。

1969年時点の普天間所属機はヘリ4機、固定翼16機だけである。

1969年ころの普天間基地は、出入り自由で、滑走路のすぐ横で畑を耕すことすら黙認されていた。

なお、「所属」とはいっても、ベトナム戦争中の実際の運用はベトナムのダナン空軍基地が中心となったので、これも普天間は利用されていない。
 上記は書類上の数で、常駐する機体はほとんどなかったと言ってもいい。

 「黙認耕作地」では畑耕作は黙認されますが、何かあればつぶされます(住民運動とかがあるとつぶされます)。墜落等に備えた安全地帯に畑が黙認されたのです。
 基地用地であることに違いはないですから、住居を建てることはもちろんできません(農具小屋と言って住んでいた人はいたようですが)。

普天間基地で物資補給係として働いていた崎浜さんは、高校生が部活動の練習に励むなど「軍事施設とは思えない牧歌的な感じがあった」と話す。

『滑走路にペンペン草が生える』といわれる休眠状態だった

さらには、米国防総省は、1968年12月に策定した在日米軍再編計画において普天間基地(普天間飛行場)の閉鎖も検討していた。

クリフォード国防長官(当時)が統合参謀本部や各軍トップに宛てた内部文書には、朝鮮半島有事の際でも、普天間基地からの航空機は到着まで数日かかるため決定的な役割を果たせないことなどを理由に、普天間基地の閉鎖を提案していることが示されていた。

。1973年5月には米国務省が、在沖海兵隊の韓国移転案を、韓国や日本に打診していた。しかし、防衛庁が、7月の日米安全保障条約運用会議で、在沖海兵隊の維持を米側に要求した。

普天間飛行場は、停戦していただけの朝鮮戦争に対応する国連軍の予備部隊としての海兵隊の基地という位置づけだったが、朝鮮半島から遠いことで役割が果たせないというのが在沖海兵隊の韓国移転案の理由であった。
東シナ海地域には嘉手納基地の他にフィリピンのスービック、クラークといった基地も機能していたのです。

この計画に対して、日本側は、駐留費用負担の密約をして海兵隊を引き留めたとされる。

1972年の本土復帰で日米が在沖米軍各施設の使用条件などを取り交わした「5・15メモ」には、普天間飛行場への住民の出入りは「米軍の活動を妨げない限り許される」とある。
当時の子どもたちは近道のため基地内を通って通学していた。

出典朝日新聞2017年12月29日

児童急増で普天間第二小学校が分離開校したのが、1969年のこと。
 本土復帰の1972年においても、普天間飛行場は、子ども達の通学路(近道)にもなる、出入り自由な原っぱだったのです。子どもが近道したり部活の練習をしたりするただの原っぱだったのです。もちろん、黙認耕作地では畑耕作もされていました。

1970年代初めまでの普天間基地は、ベトナム戦争の最中でさえ閉鎖を検討されるほどの、ほとんど機能していない基地でした。

いや、「基地としての歴史」は、1970年代初めの頃までほとんどなかったのです。

1962年で住宅が密集する普天間 年代別の航空写真(普天間基地)

以上のことを、国土交通省が保存していた航空写真で確認してみましょう。

 なお、この航空写真の一部は、トリミングするなどして悪用もされた。
2012年頃までチャンネル桜や2ちゃんねるなどによって拡散されてきた「普天間基地周辺は1970年でも何もなかった。人は住んでなかった」などのキャプション付きのデマ画像がある(本まとめの最後に解説)。

しかし、真実は以下にみるとおりです

普天間基地の北側にある普天間地区。
画面右に普天間小学校の運動場。
 米軍が、収容所から解放された住民に最初に居住を許可したのがこの地域だった。
 すでに1962年時点で、狭いエリアに住宅が密集しているのが分かる。

国土地理院 「地図・空中写真閲覧サービス」(クリックで拡大)

すでに1962年時点で、普天間地区が住宅超過密地域であったのがよく分かる。
それはそうでしょう。
 普天間小学校の児童過密によって、1969年に普天間第二小学校が分離開校したのですからね。
人が住んでいるからこその児童過密であって「普天間基地周辺は1970年でも人は住んでなかった」などのデマが、どうして信用されたのかが不思議でならない。
 普天間第二小学校は、2つの基地に挟まれ空き地がないなかを校有地の確保に苦労して、(今見ても狭い運動場であることが分かりますが)文部省基準の4割しかない校地でやっと開校したのです。
 ちなみに普天間小学校は1968年で児童数2400人余、54学級の超マンモス校で分離が急務であった。 普天間第二小学校の初代教頭だった宮城武雄さんの証言によれば、普天間第二小学校の敷地は「新城の自治会の公有地や(本土で言えば)鎮守の森を、また周辺の土地を持ってる人たちにも話して譲ってもらった。自治会の公有地というのは、村祭りで芝居とかをやる「あしびなー」野外劇場とか闘牛場とかだった。新城の学校の敷地としてなら喜んで譲るからって」(NHK戦後史証言プロジェクト)
 1960年に人口が3万人を超え市制昇格の条件を満たしたことから、この画像と同じ1962年に宜野湾市に昇格している。
 なお、(画像で)住宅が建っておらず畑に見えるところの多くは、基地用地だが、「黙認耕作地」として畑を作って自由に出入りすることが黙認されていた。

 他方で、(画像で)上のほうの広々とした宅地は米軍住宅です(キャンプ瑞慶覧)
各戸とも芝生のお庭付きでアメリカーのお子様たちがプールで遊んでいました。
琉球人民は水不足で飲み水もままならなかったのですが。

 普天間に人が集まってきたのは、「水と仕事」です。
 沖縄本島は水が出る場所が非常に少ない(現在は技術進歩で100キロ離れたやんばるから送水できます)。米軍が基地を造った理由でもあるのですが、普天間は湧き水が豊かでした。

そして、仕事です。
 沖縄戦で産業もインフラも完全破壊され、不発弾だらけで農耕すらままならない状態で、仕事にありつけるのは米軍基地だけでした(また、後述リンクのように、米軍政府はそのように仕向けました。為替操作などで産業振興を阻害し、基地で働くのが一番給与がいいという状態にしました)

 普天間基地はほとんど機能していなかったので仕事はなかったが、普天間の町を挟んだ北側にあるキャンプ瑞慶覧(キャンプ・フォスター)は米兵の居住区でハウスメイドをはじめ仕事があった(基地機能強化された今でも普天間基地の軍雇用員は2百人足らずであり、キャンプ瑞慶覧の軍雇用員は2千人)。
 さらに普天間の町には(基地キャンプ内では許されていない類の)遊興を提供する歓楽街(特飲街)もできた。

 「基地で働くのが一番給与がいいという状態」とはどのようなものであったか。
 米軍居住区にあるレストランの給仕職が人気があった。(琉球民政府の)公務員と同じ給与で、加えてチップもあり、レストランの残り物ももらえたことから。
 ともかく米軍物資を手に入れられる仕事に人気があった。産業は育たず、米軍物資以外に頼るものがなかった。南部の村など米軍物資の届かない地域は、本土復帰の頃でも、1日2食でイモしか食べられないという有様だった。

 復帰後は、普天間基地のある宜野湾市は、沖縄本島中部の中心地でもあり、県庁所在地の那覇市へと通勤通学するに至便なベットタウンとして、「那覇広域都市計画圏」で市全域が市街化区域に指定されると宅地化がさらに加速しました。
 普天間基地があることで渋滞が激しく、それを避けるために、普天間基地の南側(那覇に近い方)が人気となった。

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