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【真田】名言・辞世の句・真田丸の今後のネタバレ・豆知識

真田信繁は慶長20年5月7日に49歳の生涯を閉じています。今回は歴史上有名な真田信繁が名言を残していたのでまとめました。人生でもっとも注目されたのが豊臣家に対する忠義を貫いた最後の1年。

更新日: 2019年01月06日

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この記事は私がまとめました

godssさん

目次
1ページ:名言集
2ページ:真田信繁(真田幸村)だけじゃない
     真田氏の武将

3ページ:真田信繁(真田幸村)と大阪冬、夏の陣をかいつまんで解説
     真田豆知識を紹介

4ページ:真田丸気になる今後は・・・

戦国時代最後の名将 真田幸村

真田信繁(真田幸村)は大阪冬の陣と夏の陣で豊臣方につき、徳川家康を窮地に陥れた戦国時代最後の名将として知られています。

歴史の中で勝者か敗者かと問われれば敗者で、敗者については歴史上その事跡が残らないことも多いようですが真田信繁(真田幸村)は別格。

豊臣家に対する忠義とその潔さから今でも多くの歴史ファンに愛され、事績や名言などが今に伝えられています。

この記事では真田信繁(真田幸村)の名言をいくつか取り上げ、その名言の意味から人となりを考えたいと思います。

なお、真田幸村は江戸時代に入ってから世間に伝えられるようになった名前とも言われています。生前は真田信繁と名乗っていた可能性が高いということで、この後は真田信繁の名前でその名言と意味をお伝えしていきます。

十万石では不忠者にならぬが一国では不忠者になるとお思いか

真田信繁は冬の陣で大阪城唯一の弱点を見つけてそこに真田丸という防御陣地を作りました。実際、冬の陣では真田丸の存在が徳川方を大いに悩ませたと言われています。

その冬の陣が終わった後、徳川家康は真田信繁の武勇を恐れて懐柔に乗り出します。

このときの最初の条件が徳川方の味方につけば真田信繁に10万石を与えるというものでした。真田信繁がこれを一蹴すると、徳川家康は条件をつりあげ信濃一国をあてがうから味方につくようにと再度説得に乗り出します。

このときに語られた名言が「十万石では不忠者にならぬが一国では不忠者になるとお思いか」という言葉です。

真田信繁は豊臣家に対する忠義の士として知られていました。 それと共に豊臣家をつぶそうとする徳川家康に強い敵意を抱いていたとも考えられます。

真田信繁が利にさといだけの武将なら10万石でも豊臣家を裏切った可能性はあります。

しかし、真田信繁は利よりも理で動く人物。

真田信繁にとっての道理が豊臣家に対する忠義だとしたら、徳川家康がいくら利で誘おうとしても絶対にその信念が揺らぐことはなかったはずです。

この名言は真田信繁の覚悟を示すとともに、利で誘おうとした徳川家康に対する強烈な批判という意味も込められていたと考えることができそうです。

ただこのような忠勇無双の英雄ぶりは、二代将軍秀忠の関ヶ原遅参などの失態・愚将ぶりのカモフラージュのためにあえて名将と持ち上げたとか、朱子学を奨励した江戸幕府の政策の都合上決して裏切らない剛強な武士の理想像と徳川政治の締め付けに対する庶民的鬱憤のガス抜きというニーズにマッチしたという事情が為せる業ともいえます。

なるほど

関東勢百万と候え、男は一人もなく候

この言葉は豊臣家が滅亡した夏の陣で真田信繁が発した言葉として伝えられています。

夏の陣は最初から結果が分かっていた戦です。 天下の名城と言われた大阪城は冬の陣で周囲の堀が埋められ防御力のない城になっていました。

冬の陣は籠城戦という選択肢もありましたが裸城では籠城は無理。夏の陣は最初から野戦しかありえない状況でした。

野戦となれば兵力の差がそのまま勝敗に結び付きます。冬の陣に参加していた豊臣方の武将も敗戦確実とあってその数を減らし、兵力には格段の差がありました。

この時期に行われたのが夏の陣における道明寺の戦いです。道明寺の戦いでは真田信繁勢は伊達政宗勢と相対します。両軍は激突しますが結果は真田信繁の勝利。

このときの名言が「関東勢百万と候え、男は一人もなく候」です。

この言葉の意味は「関東武者は百万人いても、その中に男子は一人もいないものだな」というもので、相手を強く揶揄した言葉となります。

この言葉は伊達軍の弱さを嘲笑するとともに、味方の強さを称賛する名言として知られています。

しかし、真田信繁自身はすでに豊臣方の敗戦を覚悟していたはずですし、実際に道明寺の戦いがあった翌日には真田信繁自身が討死をしています。

道明寺の戦いは真田信繁自身にとっても最後の輝きを見せた戦。 そのように考えると、この名言は一層の奥行きの深さを感じさせてくれます。

恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか

「受けた恩よりも、金や身分などの欲に溺れる者は果たして人と呼べるだろうか」という有名な名言です。

これは『関ヶ原の戦い』で真田家が西軍につくか東軍につくかの決断を迫られた際に、真田幸村が発したとされる言葉です。

真田幸村は豊臣秀吉に大変可愛がられており、その事をとても感謝していました。
そんな彼を莫大な報酬で味方に付けようとした東軍から誘いを受けますが、「豊臣には返すべき恩がある!」としてその誘いを断っています。

結果、真田家は幸村の兄(信之)が東軍に、父・昌幸と幸村が西軍に付くことになりました。

人の死すべき時至らば、潔く身を失いてこそ勇士の本意なるべし

「命を捨てても目的を達成しなければならない、そんな時がやってきたら、潔く身を捨てる。それでこそ勇士というものだ」という意味。

いざとなれば損得を度外視できるその性根、世のなかに、それを持つ人間ほど怖い相手はない。

真田は日本一の兵 いにしへよりの物語にも これなき由。

今でこそ幸村の代名詞のように使われる「日本一の兵」ですが、幸村を初めてそう呼んだのは初代薩摩藩主・島津忠恒です。

『薩摩旧記雑録』の中に


五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由。徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候。

という記述があります。

この記述がある『薩摩旧記雑録』というのは、島津氏および薩摩藩政史研究の根本史料とされているものです。

部下ほど難しい存在はない。

人材育成には、[ほめる」「叱る」「教える」ことが必須です。
管理職の使命は、部下が成果を上げられるように導くことです。
予定した筋書きとは反対の結果になってしまうこともあります。
「いかに人を動かすことが難しいか」ということです。

「人の心」として武田信玄はこのような言葉を残しています。
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり

この幸村、ただ、命を長らえているだけの処を召し出され、武士としての面目を立てて頂いた身、このご恩、土地や金子などに、到底、変えられない。

徳川方としては真田幸村には真田丸の戦いなどで手痛い目を合わされました。そうしたこともあったのでしょう、幸村に対して家康は真田幸村の叔父・信尹を通じて10万石の条件で寝返りを打診します。

この申し入れを断ると次は40万石になったと言われます。しかしそれも断ったと言われています。

その時の言葉が
「この幸村、ただ、命を長らえているだけの処を召し出され、武士としての面目を立てて頂いた身、このご恩、土地や金子などに、到底、変えられない。」です。

日本の半分をもらっても寝返るつもりはない。

秀吉亡き後、三成vs家康の雌雄を決する関ヶ原の闘いが幕を開ける。秀吉に恩のある真田家の中で、父と兄は家康に付き、幸村だけが豊臣側である三成に付いた。

大阪冬の陣でも秀頼側につき"真田丸"で奮闘する幸村に、家康は思わぬ苦戦を強いられる。冬の陣の講和後真田丸は取り壊されたが、どうしても幸村の力が欲しかった家康は、幸村の叔父である家臣の真田信尹(のぶただ)を使者としてこう伝えた。

寝返れば[信濃一国を与える]と持ちかけた家康に、幸村の答えはノーだった。

日本の半分をもらっても、(家康に)寝返るつもりはない。

定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候 我々事などは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候。

「今は乱世の為、明日自分がどうなるかわかりません」という意味が込められた名言。
真田幸村の最後の戦いとなる『大坂夏の陣』の直前、血縁にあたる小山田茂誠(おやまだしげまさ)に送った書状に書かれていたものの一節です。

決戦を前に決意を述べていると伺える内容ですが、自分が味方している豊臣方が劣勢であり、厳しい戦いになることを冷静に判断していたともとれる一文です。見方によっては辞世の句にもみられる

これは真田信繁が義兄にあてた手紙の一節と言われています。 出された時期は冬の陣が終わり夏の陣が始まる前。

冬の陣が終わった時、豊臣方の諸将の多くは講和に反対したと伝えられていますが真田信繁もその一人。 しかし、実際に講和されたとき真田信繁はその段階で死を覚悟していたと言われています。

それが、この文章に言い表されています。

「定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候」の意味は「定めない浮世のことなので、一日先のことは私自身にも分かりません」というもの。

この文章から楽観的な雰囲気は漂ってはきません。 むしろこのままでは済まないという感じがにじみ出ています。 また、この文章からは直接に読み取れないにしても、真田信繁には冷静な現状分析ができていたはす。

推測にすぎませんが、この文章は真田信繁自身が死を覚悟していた名言のように思われます。

今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただひとつのみ。

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