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時代の流れに葬られた天才洋画家、五姓田義松とその驚くべき絵画

時代に翻弄され、忘れ去られた明治期の洋画家、五姓田義松(ごせだ・よしまつ)。皇室や政府からの信頼も厚く、数多くの仕事をこなした天才は、なぜ忘れ去られてしまったのでしょうか。

更新日: 2016年03月17日

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五姓田義松

五姓田義松(ごせだ・よしまつ)
1855年6月12日 - 1915年9月4日
明治期に活躍した日本人洋画家。

この絵は義松が22歳の時に描いた自画像です。

武士の子として江戸(東京)に生まれ、日本だけでなく世界で活躍した天才洋画家です。

1855年、洋画家である五姓田芳柳の次男として江戸に生まれました。
実妹の渡辺幽香(幼名・五姓田たつ)も同じく洋画家として世界に名を馳せています。

後年、五姓田派といわれる、画工一族の御曹司であり、父は国芳一門に名を連ねる、幕末〜明治の日本美術黎明期にあって、早熟の天才の名をほしいままにした画家です。

五姓田義松は、10歳の頃から横浜に住んでいた英国人報道画家チャールズ・ワーグマンに入門し、当時まだ珍しかった西洋の絵画技術を学びはじめました。

1865年、チャールズ・ワーグマンに師事。1874年、川上冬崖の推薦で陸軍士官学校に図画教師として勤務。1876年、工部美術学校に入学しアントニオ・フォンタネージに師事するが翌1877年に退学。同年、第1回内国勧業博覧会の洋画部門に「阿部川富士図」を出品し、鳳紋賞を受賞。1878年より明治天皇の御付画家として北陸・東海地方の行幸に同行した。

すでに19歳にして五姓田義松は、日本で唯一人の西洋画家として「先生」と呼ばれていた。その風貌は、真ん中で分けた散切り頭、目もと涼しい白皙かつ寡黙な青年だが、外出時には縞の袴に方歯の下駄で、腰には絵の具を入れた革製の袋を差し、武士の風情を残していた。

明治8年(1875年)
死の淵にある自らの母親を描いた傑作。
神奈川県立近代美術館蔵。

驚くべき速さで技術を身に着け、パリのサロンでは日本人初の入選、まさに正真正銘の天才でした。

洋画家として世界に認められた、文字どおりのパイオニアとして知られています。

皇室からの信頼

西洋では主に光の明暗によって人物の存在感を表してきました。光が当たるのが手前で影を使って奥行や立体感を出すという手法です。五姓田義松はそれを10代で身につけていました。いち早く絵の英才教育を受けていたからです。

明治10年(1877)、東京上野公園で開かれた第1回内国博覧会で、五姓田義松は駿府から眺めた「阿部川富士図」と「自画像」を出品し、洋画部の最高賞を受賞する。2位は高橋由一と山本芳翠だった。

明治時代になると、五姓田義松は皇室や政府から製作依頼を多く受けるようになります。

明治11年(1878年)
1866年に崩御した明治天皇の父、孝明天皇を描いた。

義松の名声は一層高まり、翌明治11年から宮内省に依頼されて後醍醐、孝明両天皇の肖像画などを描き、明治天皇の北陸、東海道御巡行には奏任官待遇で御付画家を命じられた。他に貴顕紳士の肖像画制作など、明治の洋画家の最高峰は五姓田義松だった。

明治天皇の行幸にも同行し、訪問先での日本の風景を描く御付画家に起用されていたそうです。

五姓田義松はフランス帰りの黒田清輝よりも早くパリへ渡り最高の権威を持つサロンに日本人として初めて入選。さらには死の淵にある人間の姿まで描ききりました。ところが、五姓田義松の名前は忘れ去られていきました。

“忘れられた天才画家”として後年再評価されるまで、彼の名は美術史から葬り去られていました。
いったい、何があったのでしょうか。

パリ滞在3年で若干29歳の五姓田義松は、寓意の表現方法までも習得したことがわかる。
これほどの人物が日本美術史から欠落した理由を探ってみたい。

日本美術史からの忘却

“デッサンの鬼” とも呼ばれた義松は、当時まだ珍しかった鉛筆で大量のデッサンを描き残しています。

明治皇室から仕事を依頼されるほどの地位にありながら、何故、その天才性は急速に失われてしまったのか、そして誰が彼を美術史上から抹殺したのか。

時の傾向として維新当初の極端な欧化政策がやがて揺り戻しの国粋主義的な動きが現れ、これは美術の世界でも同様に官立・国立の美術学校では洋画が排斥されるといったことも続いていた

日本における最初の国立美術教育機関である「工部美術学校」は、1876年(明治9年)に西洋美術教育のみで発足したが、財政事情の悪化に加えて、欧化政策の反動から国粋主義の台頭を背景に1883年(同16年)には廃校に到った。

2015年、没後100周年を記念し神奈川県立歴史博物館で開催された特別展の公式動画。

冬崖の死後、工部美術学校の閉鎖、洋画の博物館からの撤去、四国博覧会での洋画の出品禁止――、と洋画排斥の嵐が吹き荒れた。
この辺りを日本の近代美術史は語らない。

幕末から明治初期にかけて活躍した洋画家、川上冬崖が熱海で不審死を遂げた後、日本の洋画家たちには冬の時代が到来します。

五姓田義松が天皇の御付画家を辞したのはなぜか。パリに留学する理由は何辺にあったか。その問いさえ許さない熾烈な洋画排斥の時代である。

義松がパリ留学直前に描いた、父・芳柳の画。
明治13年(1880年)。

1880(明治13)年にはパリに留学。日本人初のサロン・ド・パリ入選作家になるなど当地でも活躍したが、帰国後は流行の波から外れ、徐々に忘れられた存在に。

明治14年(1881年)
東京都現代美術館所蔵。

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