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【こうして切腹が爆死に】松永久秀は1950年代から自爆しはじめ、1990年代に茶釜爆弾へ

松永弾正の茶釜自爆伝説がいつはじまったかのダイジェスト版です。ボンバー松永や爆弾正などの爆死ネタはここから。

更新日: 2017年01月29日

betelgeuse_さん

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信貴山城(しぎさんじょう)で
このあと一族全員とともに天守閣ごと燃える人

当時のおもな松永弾正の死にかた記録

1. 久秀は天守閣に放火し切腹 信忠軍は焼け跡から首4つを見つけた

もっとも信頼できる記事です。
茶釜のことは何もなく、久秀とその息子は切腹自殺し、放火で燃え、首は織田軍がお持ち帰り。

興福寺の僧の日記
『多聞院日記』:「昨夜松永父子腹切自焼了、今日安土ヘ首四ツ上了」
京都の吉田神社神主、吉田兼見の日記
『兼見卿記』:「昨日十日松永在城之シギ落城、父切腹自火、悉相果云々、」

2. 久秀は天守閣に放火し切腹 頭と茶釜を爆破するかも宣言

のちに坂本城天守閣に追い詰められた明智秀満が自殺するとき、
宝物は目録を添えて天守閣から降ろし秀吉方の堀秀政軍へ渡しますが、
倶利伽羅の吉広江の脇差だけは光秀ゆかりの品として手元に残します。
そのやりとりを見た人々が「信貴山城で松永久秀が切腹したときにそっくりだ」と言っていた噂話です。

それによると天守閣の外から佐久間信盛側が大声で呼びかけ、松永久秀側が答え、
切腹後の久秀の頭と平蜘蛛茶釜は渡さないという強い意図が
「火薬で砕く」表現で伝えられたらしい。
兵たちはほんとにやったと噂していますが、これの真偽は不明です。

川角三郎右衛門が収録した噂話
『川角太閤記』:「松永殿大和のしぎ山の城にて切腹の時」
「言葉しも相たがわず、頸は鉄砲の薬にてやきわり、みじんにくだけければ、ひらぐもの釜と同前なり」

3. 久秀は天守閣に放火し火に飛び込む 平蜘蛛茶釜はうちくだく

太田牛一は久秀が大仏を焼いた因果が気になっているので、切腹という表現は使わず、
久秀の遺体が燃えたことを強調しています。
平蜘蛛茶釜を砕く表現はなぜか『信長公記』にはなく、川角も記載した天守閣内外のやりとりをそのまま採録しただけかもしれません。

太田牛一の記録
『信長公記』:「防戦弓折矢尽松永天守に火を懸焼死候」「己れと猛火之中に入部」
『太閤様軍記の内』:「天守に火をかけ、平蜘蛛の釜うちくだき、やけ死に候」

4. 伝説 高齢でも健康を維持し、切腹できるお手本としての久秀

後世の伝説では、久秀は持病の発作で切腹が中断されないよう直前に頭頂部にお灸しています。

「先が長くないから健康はどうでもいいや」と言うある老人が、別の人に「雨漏りする宿とか絶対ダメ。病気で切腹できなかったりして名誉を損なうよ。そのへんしっかり健康管理してた松永久秀はこう言ってるし」と説教されたお話。

『備前老人物語』:
「死にのぞみて、もし卒爾に中風発して、五体心にまかさずば、臆したりとやわらわれなん。」

昭和時代はじめまで

1950年ごろまで、小説では焼け死にとするか、切腹死するかのどちらか。

人々の関心は死にかたそのものよりも、
遺体が焼けた日付時刻と松永久秀が大仏を焼いた日付時刻が同じだった『多聞院日記』『信長公記』、
春日明神の使い「鹿」と織田信忠の兜の前立の一致『信長公記』、
珍しい星・彗星(客星)が出ていた『信長公記』『兼見卿記』、
平蜘蛛釜の引き渡しを拒み破壊した『川角太閤記』『太閤様軍記の内』、
自分の首を切腹後に家来に破壊させた『川角太閤記』
などにありました。

1945年まで新聞連載された吉川英治作品『太閤記』
「落城の日は、自分の首も、平蜘蛛の釜も、鉄砲(たま)ぐすりを仕掛けて、粉々にくだいてしまうように家臣へいいつけ――その上で腹を切った」

川角太閤記の記載にしたがった内容です。

1950年代、最初の爆発描写

小説の1955年の中山義秀作品『松永弾正』、1958年の井上靖作品『平蜘蛛の釜』で、川角太閤記の「切腹」が抜け落ちて死因が爆発になります。

中山義秀:「「平蜘蛛」の釜と自分の頸に火薬を仕掛け、二つとも木ッ葉みぢんに砕いて死んだ」
井上靖:「落城の時爆薬で自分の頭を割った」

1960年代から1980年代、歴史家の桑田忠親が徐々に自爆へと変化

専門家で多数の歴史関係の本を著している桑田忠親の文章や語りから、松永久秀の死に「切腹」が無くなり自爆へ変わっていきます。

1960年『織田信長の手紙』「自決」
1963年『武将伝戦国の史話』「自害」
1967年『茶道の歴史』「切腹したのちに、自分の首を鎖で茶釜にくくりつけ、火薬でもって、木葉微塵に打ち砕かせた」
1975年テレビ番組『日本史探訪』「釜と自分の首を鎖で結び、火薬を点じてもろともに、微塵となって砕け散った」ナレーション
1989年『新編 日本武将列伝 4』「天下の逸品「平蜘蛛」の茶釜を首につるし、火薬に点火して、茶釜もろとも自爆した」

1980年代以降、天守閣を吹き飛ばす爆発描写が好まれる

放火され燃え落ちる天守閣のイメージがしだいに薄れ、
天守閣を爆破すると小説家たちは描写するようになっていきます。

1983年早乙女貢作品『悪霊』「凄まじい爆発音とともに天守閣が吹っ飛び、火の柱が天に冲した」
1987年早乙女貢作品『叛臣伝』「おのれの頸に火薬を仕かけ、木端微塵に砕いて、れいの天守からもんどり打って寄手の中に落ちた」
1993年『信長の野望合戦辞典』「ちなみに巷説によれば、久秀は平蜘蛛の茶釜に火薬を詰めて壮烈な爆死を遂げたと伝えられている」
1996年八尋舜右作品『松永弾正 火の器』「轟音とすさまじい火柱が立ちのぼり、平蜘蛛の釜も弾正の首も微塵にくだけとんだ」
1998年戸部新十郎作品『松永弾正』「かねての合図に従い、火薬に火が放たれた。轟然、爆発音が響いた。あの名代の天守閣が吹っ飛んだ」

大河ドラマでも茶釜爆弾により自爆するようになり、現在へ

2006年大河ドラマ『功名が辻』、2014年大河ドラマ『軍師官兵衛』などで自爆シーン

2009年Yahoo!知恵袋「日本史上初めて爆死した人物は誰ですか?」で松永久秀を挙げた人が質問者によってベストアンサーとされ、以後に久秀の代名詞になっているようです
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1425358134

リアル系を目指す人への久秀まとめ

・久秀は織田信忠軍の攻撃で信貴山城の天守閣に追い詰められた。
・信貴山城の攻略に成功した信忠が鹿の角の前立を兜につけていたので、信長公記を書いた太田牛一は奈良の春日明神の加護があったのではと思っている。
・兼見卿記によると十数日前から彗星が出ていた。太田牛一はこれも奇瑞のひとつとみている。
・天守閣を包囲した佐久間信盛側は茶釜を引き渡すよう呼びかけ、松永側からは「首と茶釜は鉄砲の火薬で砕いて渡さない」と返答があったし実際やったらしい、と坂本城落城のときに信貴山城落城と久秀の切腹を思い出した兵たちは噂話していたと川角太閤記で採録されているが、どのぐらいホントのことかは不明。
・平蜘蛛茶釜を「うちくだき」と書いた太田牛一の『太閤様軍記の内』では、砕いた方法はわからない。久秀の宣言をそのまま収録しているだけかもしれない。
・天守閣は松永側の放火により燃えている。内部で何があったかはわからない。
・多門院日記によると燃えたあとで翌日は大雨。鎮火して遺体捜索されたようだ。
・奈良の僧侶や京都の神主などに切腹と伝わっているので、焼死体に切腹痕が確認されているようだ。奈良県の伝承をまとめた大和志料によると、松永久秀の体は筒井順慶が引き取り達磨寺に葬った。
・多門院日記によると、(焼け跡から見つかった)頭部のうち4つは(切腹して介錯され首だけになった松永父子を含むものとして)安土城へ送られた。
・死んだ日付も時刻も10年前の大仏殿炎上と同じで、興福寺の僧や、太田牛一は大仏を燃やしたから久秀自身も燃えたと、因果が巡る世の中の仕組みを感じていた。吉田兼見は将軍義輝を殺した天罰だと思っていた。
・死んだ松永久秀は老人ながら健康管理に気を遣っていたから敗北時に切腹できて臆病者とみなされずに済んだと人々に語られ、「健康管理は大事」と他人を説得する故事に使われていたと備前老人物語に収録された。

爆弾と爆発の属性をもつ伝説の怪人・久秀をいじりたい人用のまとめ

・信長公記での久秀が火に飛び込むシーン、川角太閤記での久秀が切腹前に「首と釜は渡さない爆破するぞ」宣言シーン、ここがのちの創作の土台になった。
・1950年代に歴史小説家たちが久秀の切腹を省き、首と爆破で死を表現した。
・太閤記の専門家である桑田忠親も、はじめは切腹主体で記載していたが、次第に爆発描写に魅了されていった。
・桑田は1975年のNHK歴史番組への出演で、同時に出演した作家の南條範夫が「切腹」と語ったにもかかわらず、久秀が首と茶釜を爆破したと強調した。
・1990年代、各種の小説内で、信貴山城は単に燃えるだけでなく久秀が茶釜とともに爆発させたことになっていった。
・2000年代以降、漫画「へうげもの」や大河ドラマで茶釜に火薬を詰める茶釜爆弾での死が一般化していった。
・人々は弾正を爆弾正と言い換えたり、ゲームソフト「ボンバーマン」を想起して松永久秀をボンバーマンと呼んだり、久秀をモチーフとしたキャラに爆発攻撃を使わせるようになった。

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