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三里塚闘争(10.20成田現地闘争)と成田空港の反対運動の歴史

三里塚闘争(10.20成田現地闘争)と成田空港の反対運動の歴史についてまとめました。日本でも類を見ない数千人規模の暴動が起こって、警察と殴り合いになり、双方に負傷者がでる事になりました。

更新日: 2016年04月13日

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misukiruさん

◆ 三里塚第一公園で集会後に暴徒化

三里塚第一公園の集会には、14000人ほどの人が集まったとされていて、主催者側が総力を上げて人数を集めました。

新東京国際空港(現 成田国際空港)の二期工事に反対する三里塚芝山連合空港反対同盟北原グループ主催の全国総決起集会が、千葉県成田市の三里塚第一公園を会場として開催

決起集会の予定日から数週間も前に三里塚第一公園の地面や植え込み等に埋めて隠匿していた大量の鉄パイプ、丸太、火炎びん等を掘り出し、凶器として参加者に配布してしまった。

大量に調達されたヘルメットがいつの間にか配布されて、それをかぶって暴徒化した集団が機動隊に襲いかかりました。

◆ 大規模な闘争に発展

決起集会には、主催者発表14000人が参加した。警察では、決起集会の暴徒化、テロ・ゲリラ事件を未然に防ぐべく、当日は集会の前に会場周辺で厳しい検問を実施し、決起集会参加者に対する職務質問、所持品検査によって安全を確保したはずだった。

極左過激派や暴徒化した農民たちによる市街戦の発生を事実上許してしまい、空港中枢部までも損壊させる結果となったこの事件で、警察は世論の猛烈な批判を浴びた。

成田空港の建設で村人が土地を追われる事に怒った過激派のグループが機動隊の規制線に対してぶつかっていきました。

機動隊は、防御陣形を敷いていましたが、中核派のあまりの数にひるんでしまいます。

火炎瓶は、銃火器を持たない部隊にとって最大の武器となって、警察にとっても脅威でした。

◆ 闘争の拠点ができる (1966年〜)

反対同盟結成直後、天神峰の石橋政次さん(当時副委員長、後に闘争から脱落)が、闘いぬく拠点として自らの家の中に小屋を建てて反対同盟に使ってもらいたいと実行役員会に申し出られ、生まれたのが天神峰現闘本部なのだ(1966年12月16日)。登記も67年9月20日に行われた。

1978年憲法違反とも言うべき「成田治安法」が制定され、収用・破壊の攻撃に備えるために、1988年、写真のように母屋を増築する形での鉄骨3階建ての建物となった。

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