政治資金の私的流用が取り沙汰される、舛添要一都知事(67)。自分のカネだけはきっちり守るその金銭感覚は、2001年の参院選で自民党比例区から初出馬した頃から――暴力団「工藤会」(本拠・北九州市)の原田信臣という元事務局長から脅迫される事態を招いているのだ。

この2人の関係は、ひょんなことから、テレビ業界で知られることになる。

「1990年代の半ば、北九州市では暴力団追放運動をきっかけに、企業などへの連続発砲事件が起こっていた。福岡県警は工藤会(当時・工藤連合草野一家)に対する摘発を強めていました」

と、ジャーナリストの大谷昭宏氏が振り返る。

「テレ朝の『サンデープロジェクト』で現地入りし、工藤会に取材を申し込んだら、対応に出てきたのが、原田事務局長でした。オンエアで、そのVTRを流すと、たまたまコメンテーターだった舛添さんが、“うわ、原田の信(のぶ)ちゃんだ。俺の幼馴染だよ。懐かしいな”と言い出した。その場はそれで終わったのですが、しばらく経って、今度は参院選挙の動向を報じるニュース番組を見ていたら、候補者の舛添さんの横に、その原田事務局長が映っていたのです」

2人は、実家が近所で幼馴染だったそうだが、一方は東大助教授を経て売れっ子の国際政治学者に、もう一方は、公正証書原本不実記載、住居不法侵入などの前科を重ねつつ、工藤会の中枢を担うメンバーへと、別々の道を歩んでいた。

工藤会のある有力幹部によれば、

「原田は、頭の回転が速くて、うちにとっては有能な事務局長やった。だけども、ギャンブル好きで、あちこちから、それこそ他の組織からも借金をして返さず、問題を起こした。それが5回も6回も続いたから破門になり、追加で、絶縁、所払いと処分が重なっていった」

最終的に所払いとなった原田氏は、壱岐島へと移り住み、家族とともに焼き肉店を始めたという。

「そこへ、舛添が訪ねていったみたい。あとで、原田から聞いたところでは、舛添の積極的な希望で、選挙を手伝ったり、後援会活動を行うようになったということだった」(同)

■“脅迫状”も

当選後、舛添氏の政治団体「九州ますぞえ要一後援会」が設立され、原田氏は代表兼会計責任者に就いた。

しかし、旧交を温め合う時間は長くは続かなかった。

有力幹部が続ける。

「初めの頃、原田は、舛添の地元秘書のようなものだと話していた。そうこうするうちに、県警本部の刑事から、原田が舛添を脅迫しよると耳にしました。さらに今度は、溝下秀男総裁(当時)に呼ばれ、“原田のこと、抑えろ”って指示された。それで、原田に会(お)うたら、資料をいっぱい持って、“舛添はカネに汚い、経費も交通費もくれない”と捲し立てていた」

原田氏は、舛添氏に対し、“脅迫状”も送っていたという。

「舛添からしたら脅迫状かもしれんけど、原田は、正当な社会正義なんだと説明しよった。説得には、数カ月かかりました。原田は、“黙認してもらいたい”と、舛添追及にものすごいこだわっとった。盛んに裏切られたと口にして、悔し涙まで流しとった。最後には慰留し、脅迫は引っ込めさせた。原田はカネにいい加減だったから、言い分を鵜呑みにできんところもある。ただ、舛添には、腹を立てたまんま、3、4年前に他界したんよ」(同)

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