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家康が遠慮し続けた次男「結城秀康」の生涯

家康が遠慮し続けた次男「結城秀康」の生涯

更新日: 2017年07月28日

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k-beingさん

結城秀康出生

結城 秀康(ゆうき ひでやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。越前北ノ庄藩初代藩主。越前松平家宗家初代。徳川家康の次男。

天正2年(1574年)、徳川家康の次男として遠州浜松で生まれた。母は家康の側室の於万の方(長勝院)。

於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが、家康の手が付いて秀康を身籠った。

家康は正室築山殿の悋気を恐れ、於万を重臣の本多重次のもとに預けた。秀康は徳川家で同地代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務めた領主中村正吉の屋敷で誕生した。

家康は正室に遠慮し、秀康出産後家来の家に預ける。

家康は正室築山殿の悋気を恐れ、於万を重臣の本多重次のもとに預けた。

本多 重次(ほんだ しげつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。通称は作左衛門で、剛邁で怒りやすいので「鬼作左(おにさくざ)」と綽名された。

父家康に嫌われる

幼名を於義伊(おぎい)と名づけられた秀康は、父・家康に嫌われ、満3歳になるまで対面を果たせなかった。

冷遇の理由は双子で生まれてきたことにあるともされる。当時双子での出生は「畜生腹」と言われ、忌み嫌われていた。

兄・信康のとりなしで家康との対面を果たす

その対面も、あまりの冷遇に異母弟を不憫に思った兄・信康による取りなしで実現したものであったという。

徳川 信康(とくがわ のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。

兄・信康が織田信長の命により切腹させられる

天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から、織田信長の命令により信康が切腹させられる。

このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずであった。

しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。

羽柴秀吉の養子になる

天正12年(1584年)12月22日、元服して、養父・秀吉と実父・家康の名から一字ずつ取った名を与えられ、羽柴秀康と名乗った。

秀吉の「秀」、家康の「康」を一字ずつ取って「秀康」と名乗る。天下でこれほど贅沢な名前もないであろう。

秀康の活躍

秀康は天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めた。

続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げた。

天正18年(1590年)の小田原征伐、天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加した。

秀吉に実施鶴松が産まれる

しかし天正17年(1589年)秀吉に実子の鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松を豊臣氏の後継者として指名。そのため秀康は他家へ養子に出されることとなる。

このころは、家康は秀吉の傘下にあり、秀康の人質としての価値もなくなっていたようです。

秀吉は、秀康を北関東の大名の婿養子とすることを考えついた。

今度は、結城晴朝の養子になる

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