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【ヒストリア】石田三成の武州・忍城攻め~真田昌幸・信繁もそこにいた~

大河ドラマ「真田丸」。いよいよ6月12日の放送より秀吉による小田原・北条攻め開始!その中、真田信繁も同行したといわれている石田三成の初の戦働きとなる忍城攻め。秀吉の「備中水攻め」を参考とするも、見事その猛攻をしのいだドラマは「のぼうの城」にも描かれました。歴史の合間こそ、ドラマがあるんですね。

更新日: 2018年01月14日

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orihoanさん

真田丸はいよいよ武州・忍城攻め。

真田丸ちゃんと録ってあるから一話から見ようと思ってるんだけどついつい見ちゃう…歴史詳しくないからどうなるのかわからなくて逆に面白いなぁ

真田丸、史実寄りだったり創作寄りだったりしながら、滅ぶ者として描かれる北条を丁寧にやる所いいよなあ…

今週の真田丸、出浦様の「乱世にしか生きられぬ男もいるのだ」にグサっときた。時代に取り残されたものは滅ぶ。言葉にすると簡単だけど、人の心はそんな簡単じゃないよね。

小田原攻めじゃ〜‼︎ でも、伊達が来なくてイライラ。後にあの死装束で登場したけどw 三成は忍城攻めに苦戦と腹痛やらでゲッソリ、北条も氏政が頑なに拒否るから息子&江雪斎がグッタリ(´Д` )信繁が説得しようと来たら襲撃された!そして、佐助の煙幕からの義兄再登場キター!【真田丸感想】

「忍城」と書いてこれで(おしじょう)と読みます。

行田市が誇る忍城(おしじょう)は関東七名城のひとつに数えられる名城であり、中でも天正18年(1590年)、石田三成率いる豊臣秀吉軍が行った水攻めを耐え抜いたエピソードは、数々の物語の題材になっています。

埼玉県行田市ですね。ハイ。

天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。石田三成は秀吉から北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられる。

真田安房守昌幸も信繁もここにいた。

天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐のおり、忍城を攻めあぐねていた石田三成の許に、援軍として駆け付けたのです。『成田記』によると、同年7月1日、真田昌幸・幸村は忍城の「持田口」攻撃を開始したと記録されています。

戦国武将は、東奔西走。体が丈夫じゃないと、さぞ大変だったことでしょう。。

「戦下手の三成」のイメージを確定させた戦になった!!

なによりもこの「忍城攻め」は、石田三成にとってレッテルを貼られる大きな戦となったのです。

忍城攻めは、三成の武将として戦歴の中で、特筆すべきものである。

その理由は二つある。
一つは、これが三成が一軍の大将として臨んだ初めての戦であること、もう一つは、真偽については後で論じるが、この戦が三成の武将としての能力不足、いわゆる「戦下手」を満天下に示したもの、とされていることである。

戦上手の武将「島左近」を家禄の半分をもって迎え入れたのも納得ですね。

「三成に 過ぎたるものが二つあり 島の左近と 佐和山の城」

慶長5(1600)年の関ケ原合戦においては、三成が西軍の事実上の主将であった。左近は9月14日の杭瀬川(くいせがわ)の戦いで、東軍の中村一栄(かずひで)・有馬豊氏(とようじ)隊を撃破し、その実力を存分に見せつけたが、翌日の決戦では、激戦の最中、東軍黒田長政隊の放った鉄砲に撃たれて、戦死を遂げたと伝えられる。

世に「三成に 過ぎたるものが二つあり 島の左近と 佐和山の城」とうたわれた石田三成の重臣島左近。三成の所領が4万石だった時に半分の2万石を与えて左近を召し抱えたとの有名な逸話が伝えられる。

城主城代の成田泰季の見事な戦いぶり

忍城が築かれた場所は、北は利根川、南は荒川に挟まれた扇状地で、忍川などの小さな川が乱流するとともに、伏流水(ふくりゅうすい)が寄り集まって広大な沼地を形成していた。そして、そこに残る小島や自然の堤防をたくみに利用して、忍城が築かれたと云う。

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