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【ヒストリア】関ヶ原で島津義弘軍が見せた決死の「捨て奸(すてがまり)」

関ヶ原の戦いといえば、石田三成が敗走し徳川家康が勝ったとか、小早川秀秋の裏切り、島左近・大谷刑部の討ち死になどドラマいっぱい。ですが覚えてほしいのが島津義弘軍が見せた「捨て奸(すてがまり)」!

更新日: 2018年11月08日

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orihoanさん

殿を生き残らせるために生まれた壮絶な先方「すてがまり」を君はしっているだろうか!?400年たった今も語り継がれる(凄惨で勇猛な)薩摩隼人(さつまはやと)たちの伝説を解説しよう。

『古き楔を打ち倒すは、新しきへの旭日なり。さあ、旭日昇天の者たちよ!オイば倒し、天を…時代を駆け抜けるがよか!』 ―一刀必殺 島津義弘 出陣

まだ早か、まだ早か。戦はまだ始まったばっかりじゃ。下手に動いて戦力を損じたらいかん!―島津義弘

歴史番組観賞備忘録: 歴史秘話ヒストリア 第305回「心そろえて生き抜いてこそ 島津義弘・奇跡の敵中突破」 rekishibiboroku.blogspot.com/2018/04/305.ht…pic.twitter.com/VWT8Ekkl7j

NHK 「歴史秘話ヒストリア」でも特集がくまれた薩摩・島津義弘とその忠義な家臣たちの物語。

心そろえて生き抜いてこそ 島津義弘・奇跡の敵中突破

天下分け目の関ヶ原の戦い。石田三成ら西軍に加わった義弘でしたが、味方は裏切りで総崩れ。義弘は最期を覚悟するも、おいの島津豊久(とよひさ)の強い進言で「敵中突破しての撤退」を決意します。敵の大軍へ突入した島津勢は、からくも脱出に成功。しかし、その陰には豊久ら薩摩隼人の犠牲が…。

今夜は、あの関ヶ原で敵の大軍に血路を切り開き、故郷へ帰ったという「戦国最強クラス」武将・島津義弘を取り上げた回でした。武将で強い、と聞くと粗暴だったり冷徹だったりしそうですが、島津義弘は違いました。戦場では家臣の傷を手当てし、食べ物も分けあうなど、とても慈愛に満ち満ちた人だったと伝えられる義弘。だからこそ、のちの島津家や薩摩の人々を魅了したのでしょう。あの西郷どんが尊敬していたというのもうなずけます。

時は雌雄を決する関ヶ原の戦いのさなか。

関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続く。しかし午後2時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり、敗走を始めた。

その結果、島津軍1500人は退路を遮断され、敵中に孤立することになってしまう。

まさに絶体絶命のピンチ。。。

九州の英傑 島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎(いしんさい)と号しため、惟新公との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く、「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。

島津豊久 島津家臣。島津四兄弟・家久の子。関ヶ原合戦では尊敬する叔父・義弘と出陣。西軍諸将が退却する中、島津だけは東軍めがけて撤退した。この際豊久は、東軍の井伊直政・本多忠勝・福島正則らの猛攻を捨て身で暴れ回り戦死するが、見事に食い止めた。この豊久の活躍で、義弘は無事生還できた。

島津義弘は、本人も強かったらしいですけど、とても仲間思いで、優れたチームワークを誇った武将だったそうですよ。

座すべきときには座し、走るべきときには走れ。 島津義弘

2018年大河ドラマでは、島津義弘の子孫「島津斉彬」が活躍してます!!

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