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【ヒストリア】関ヶ原で島津義弘軍が見せた決死の「捨て奸(すてがまり)」

関ヶ原の戦いといえば、石田三成が敗走し徳川家康が勝ったとか、小早川秀秋の裏切り、島左近・大谷刑部の討ち死になどドラマいっぱい。ですが覚えてほしいのが島津義弘軍が見せた「捨て奸(すてがまり)」!

更新日: 2018年01月14日

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orihoanさん

時は雌雄を決する関ヶ原の戦いのさなか。

関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続く。しかし午後2時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり、敗走を始めた。

その結果、島津軍1500人は退路を遮断され、敵中に孤立することになってしまう。

まさに絶体絶命のピンチ。。。

九州の英傑 島津義弘

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主(後述)。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎(いしんさい)と号しため、惟新公との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く、「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。

2018年大河ドラマでは、島津義弘の子孫「島津斉彬」が活躍してます!!

ニックネームは「鬼島津」

若い時の義弘は特に血気盛んだったようである。弘治3年(1557年)の蒲生城攻めの際、23歳の義弘は真っ先に攻め入って一騎打ちを制したり自らの鎧の5ヶ所に矢を受けて重傷を負ったりしたほどの決死の勇戦を見せたという。また、木崎原の戦いにおいて、日州一の槍突きとうたわれた柚木崎正家を討ち取っている。

その島津義弘が孤立無援の窮地に

この時、義弘は後世まで語り継がれることになる驚くべき行動に打って出る。

数百メートル前方に家康の本陣が移動していたので、義弘はここに最後の戦いを挑むことを考えましたが、義弘を思い島津家の将来をうれう豊久や盛淳の戦場離脱のすすめがあり、これに応じて退却することに決めた。

八方を東軍に囲まれた絶体絶命のピンチを前に、敵の大軍の中を中央突破することを決意したのだ。まもなく島津軍は先陣を甥の島津豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣形で敵中への突撃を開始した。

島津軍は主君である義弘を守るため、捨て奸(すてがまり)と言われる何人かが留まって戦い敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦い方をした。

結果、豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが戦死し、多くの将兵も犠牲になったが、東軍も井伊直政や松平忠吉の負傷によって追撃の速度が緩み、まもなく家康から追撃中止の命が出されたこともあって、義弘自身は奇跡ともいえる敵中突破に成功した。

捨て奸(すてがまり)とは

薩摩国の大名島津氏により用いられた戦法の一つ。関ヶ原の戦いの退却時に敵中突破の手段として島津義弘が用いたことで知られている(島津の退き口)。座禅陣とも言われる。

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