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日本三大悪女の1人!淀殿(茶々)ってどんな人?

以前は淀君とも呼ばれ、豊臣政権崩壊の一番の元凶であり日本三大悪女とも呼ばれる美女、淀殿(茶々)についてまとめました。

更新日: 2016年07月03日

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うおみんさん

淀殿(茶々)

本名は 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)および浅井 菊子(あざい きくこ)。浅井三姉妹の一人。

豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の生母。秀吉から淀城を与えられたことから、一般的には淀殿の名で知られている。

・つらい幼少期

天正元年(1573年)に父・長政が伯父・織田信長に敵対して攻められ、小谷城が落城すると母妹らとともに藤掛永勝に救出された。この時父と祖父・久政は自害、兄の万福丸は捕らえられ、信長の命で羽柴秀吉によって処刑されている。

お市は重臣・柴田勝家と再婚し、三姉妹も母と共に勝家の居城・北ノ庄城に移り住む。しかしそのわずか7ヶ月後、勝家は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、お市は勝家と城を枕に自害した。

炎上する北ノ庄城から逃れ、両親の仇である秀吉に引き取られた三姉妹は、三者三様の、母以上に数奇な運命をたどることとなる。

・天下人の側室

天正16年(1588年)頃、秀吉の側室となる。
天正17年(1589年)、捨(鶴松)を生む。この懐妊を喜んだ秀吉から山城国淀城を賜り、以後「淀の方」と呼ばれるようになった。

鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を産み、秀吉の死後は秀頼の後見人として大蔵卿局・饗庭局らを重用して豊臣氏の家政の実権を握った。

日本三大悪女

そもそも、なぜ淀殿は「悪女」と呼ばれるほど、後世その性格などが悪く言われるようになったのでしょうか。その一番大きな理由としては、大阪の陣で徳川家康に抵抗したことで、結果、豊臣家を滅亡に導いたと言われることでしょう。

浅井三姉妹の中でダントツの知名度を誇る淀殿だが、結果的に豊臣家を滅ぼしてしまったことから、その一般的評価は低い。

・息子秀頼は秀吉との子ではない!?

秀頼、鶴松の父親として有力なのは大野治長です。彼は淀殿の乳母の息子でして、つまりは淀殿とは乳兄妹となります。

当時から彼と淀殿が密通しているという噂もあったようですし、随筆「明良洪範」に「秀吉公ノ子ニアラズ 大野修理ト密通シ拾君(鶴松)ト秀頼ヲ生セ給フト」と記述されています。

・他にも真の父親候補がいる?

他にも無名法人(陰陽師)、名古屋三郎、石田光成…などの候補がいます。いずれにせよ、淀殿が秀頼を産んだのは周囲にも”不自然”だったのでしょう。

最後まで家康に対抗!

江戸に武家政権を構築し始めた家康とは対立。暗に臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否し、そのようなことを余儀なくされるならば、秀頼を殺して自害すると主張した。

慶長19年(1614年)、関東との交渉役片桐且元と淀殿侍女の大蔵卿局の家康の意図解釈の齟齬をきっかけとして大坂の陣が勃発。淀殿は武具を着て3、4人の武装した女房を従え、番所の武士に声をかけ、激動していたが(『当代記』)、期待した諸大名の加勢がない中で大坂城本丸への砲撃を受け、講和を指示する。

しかし翌慶長20年(1615年)の再戦(大坂夏の陣)で大坂城は落城、秀頼や大野治長らと共に自害した。

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