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【ヒストリア】関ヶ原に散った大谷刑部少輔吉継〜豊臣石田軍の忠義の名将〜

盟友の石田三成を時に諌め、そして関ヶ原で義に散った忠義の名将。後世まで愛された大谷刑部吉継のヒストリア

更新日: 2019年02月25日

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orihoanさん

知勇兼ね揃えた豊臣家屈指の名将

吉継の卓越した采配や朝鮮出兵で見せた鮮やかな兵站手腕を高く評価し、秀吉は「この男に百万の軍勢を指揮させてみたい」と放言したといわれている。

大谷吉継は東軍の勝利を確信していながら石田三成に対する友情だけで西軍に参加して西軍の武将で唯1人、戦場で戦死するほど激しく戦ったので戦国武将の人気ランキングの上位に入るのだと思います。

名前の読み方

「ぎょうぶ」です。
刑部少輔=「ぎょうぶしょうゆう」が正式の官位名です。

大谷吉継は従五位下で刑部少輔(「ぎょうぶのしょう」、もしくは「ぎょうぶのしょうゆう」)に
任じられていたため、その官職名を略して刑部と呼ばれるようになりました。

刑部少輔とは何の職位なのか

「刑部少輔」というのは奈良時代に作られた律令制の官職の一つで、
裁判や刑罰など、司法全般を取り扱う「刑部省」の上から三番目の官職です。
といっても当時は既に律令制は完全に形骸化していましたから、
ハク付けのための単なる肩書きにすぎませんでしたが。
ちなみに石田三成は従五位下治部少輔(「じぶのしょう」、もしくは「じぶのしょうゆう」)に
任じられていました。

こちらは治部少輔という官職でした。
通称じぶどの。

大河ドラマでは愛之助が好演。イケメンじゃ

逸話は数あるが、関ヶ原の戦いの刑部がすごい

石田三成の盟友:大谷吉継は、ハンセン病だった。
顔の皮膚が弱っていたため、布で顔を覆(おお)い隠していたらしい。
いくさでは、輿(こし)に乗り、采配(さいはい)を振るっていたという。

関ヶ原における大谷軍の奮戦は目覚しく、「士卒皆其恵に懐き、敢て離反する者なし、其敗るるに及びて、決然として自屠し、陵辱を受けず、人皆其智勇に服せり」とあるように、大谷軍は一人も戦線から離脱せずに吉継の指揮に従って勇猛に戦ったという

合戦がはじまると、猛勇を誇る大谷隊は、寺沢広高隊を蹴散らし、宇喜多隊の救済をしようとして、それを阻止する藤堂・京極・織田隊と激しい戦闘になった。
この間、大谷は小早川に使者を送り、西軍への加担を促したが、動きは見られない。大谷隊に加わっていた垂井城主・平塚為広が「金吾殿は二心を抱いている」と忠言すると、大谷は「小早川が裏切るのであれば、貴殿と戸田重政と我らで奴を討ち取り、無念を晴らそう」と返したという(『関原軍記大成』)。

結局、小早川は裏切り、眼下の大谷隊に突撃してきた。

大谷吉継はそれに備え、精鋭をもって一旦はこれを撃退した。平塚・戸田隊も参加して激戦となり、小早川隊には370余の死者、大谷隊にも180余の死傷者が出た。

小早川の裏切りに呼応し、脇坂・朽木・小川・赤座の諸隊が大谷隊に突っ込んでくるに及び、形勢は一気に悪化した。さらに藤堂・京極・織田も総攻撃をかけてきたために、大谷隊は壊滅状態に陥った。

吉継が「義に厚い名将」として名を広く残した理由は関ヶ原における壮烈な活躍にある。西軍は日和見や裏切りが相次いだのに対し、吉継とその軍のみは寡兵ながらも最後まで奮戦して吉継は自害した。

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