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世界中から愛されたスラッガー!ゴジラ・松井秀喜のすべて!

高校時代から「ゴジラ」の愛称で大きな注目を集め、その後、日米を通じて多くのファンから愛された日本屈指のスラッガー・松井秀喜。引退してもなお注目され続ける球界のスターの全歴史を紐解く。

更新日: 2017年07月10日

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hgpwingさん

プロフィール

氏名:松井秀喜(まついひでき)
生年月日:1974年6月12日
出身:石川県能美群根上町(現:能美市)
血液型:O型

投球・打席:右投げ左打ち
ポジション:外野手
プロ入り:1992年ドラフト1位

初出場 NPB:1993年5月1日
    MLB:2003年3月31日
最終出場 NPB:2002年10月30日
     MLB:2012年7月22日

経歴 星稜高等学校
   読売ジャイアンツ(1993 - 2002)
   ニューヨーク・ヤンキース(2003 - 2009)
   ロサンゼルス・エンゼルス(2010)
   オークランド・アスレチックス(2011)
   タンパベイ・レイズ(2012)

愛称は「ゴジラ」。1990年代から2000年代の球界を代表する長距離砲で、日本プロ野球時代は読売ジャイアンツ、メジャーリーグではニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した。2012年引退。2013年には長嶋茂雄氏とともに国民栄誉賞を受賞。

幼少期

・瑠璃教会二代目司教である父・昌雄と母・さえ子の次男として生まれる。
・生まれた時の体重は3960グラム。
・3歳で入園した保育園で「保育園史上最大の園児」と言われる。
・元々は右打ちであったが、あまりに打球を飛ばしすぎるため、兄とその友人から「尊敬する掛布雅之と同じ左」で打つように薦められ、左打ちに転向する。
・小学3年からは柔道もしており、能美群大会で優勝、石川県大会では3位に入るなど、国体強化選手にも選ばれていた。柔道の他にも相撲やピアノも習っていた。

中学時代

・中学入学時で身長は170cm、体重は95kgに達していた。入学時は捕手を務め、2年夏から投手に転向した。3年生になると飛距離は130mにも達し、軟球を割ることもしばしばあった。
・中学1年のときには能美郡相撲大会に出場し、個人戦で優勝。野球部でも「関取」「相撲取り」などのあだ名で呼ばれていた。
・中学時代からメジャーリーグの試合を熱心に見るようになる。当時憧れていた球団はホセ・カンセコやマーク・マグワイアらを擁して黄金期を迎えていたオークランド・アスレチックスだった。

高校時代

・投手として星稜高校野球部へ入部するも本人曰く「投手はあまり好きではなかった」ため、すぐに野手(一塁手)に転向。その後、三塁手に転向する。1年生から4番を務め、「北陸の怪童」「星稜恐怖の1年生4番」として徐々に知名度をあげていった。
・1年生の時に愛工大名電高校と練習試合で対戦し、当時2年生のイチローと初めて顔を合わせ、一塁ベース上で言葉を交わしている。
・3年時の夏の甲子園2回戦の明徳義塾高校選で敗退。この試合で松井が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を開くなど社会問題にまで発展した。
・高校通算打率は.450、本塁打は60本。

・ドラフト前には憧れの球団である阪神に加え、巨人、中日、ダイエーを希望球団とし、その他の球団から指名された場合は駒澤大学へ進学することをほのめかした。実際のドラフト会議では前述の4球団から1位指名を受け、抽選の結果、13シーズンぶりに監督に復帰したばかりの長嶋茂雄が引き当てた巨人へ入団となった。

・星稜高校時代、「居眠りしても死角になるから」という理由で窓際の一番前の席が教室での「指定席」となっていたが、山下監督は「(松井の)授業態度はよかった」と打ち明けている。野球部の練習が大変で、通学に時間もかかるため、授業ですべてを覚えようと心掛けていたため、成績も良好であった。また、野球部の活動以外での欠席は1日もなかった。星稜高校の卒業式では、野球部での活躍が評価され、星稜高校を経営する学校法人稲置学園から「総長賞」が贈られた。

プロ野球時代

・入団会見で他の新人選手が抱負として憧れの選手や成績目標を述べる中、松井は「サッカーや相撲に小さな子供たちの関心が傾きつつあります。その中で僕はその子供たちに夢を与え、球場に直接見に来てもらえるような選手になれるよう頑張ります」と述べた。
高校時代は三塁手であったが、長嶋監督は松井に「ジョー・ディマジオのような皆に愛され、夢を与えられる選手になれ」と外野手へコンバートした。

・1年目はオープン戦から起用されるも結果を残せず、開幕を二軍で迎える。イースタンでは12試合で打率.375、4本塁打の活躍で5月1日のヤクルト戦で「7番レフト」で一軍デビューを果たす。初打席はセカンドゴロに倒れるも二打席目はライトフェンス直撃の二塁打を放ち、初安打初打点を記録。翌日には9回裏に高津臣吾からライとスタンド中段に飛び込むプロ初本塁打を放つ。
この年は最終的にセ・リーグ高卒新人記録となる11本塁打を放った。

・2年目は開幕戦で2本塁打を放つなど絶好調でスタートし、4月は自身初の月間MVPを受賞する。この年のオールスターではセ・リーグ史上最年少で4番を務めた。中日とのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「10.8決戦」でも本塁打を放つなどリーグ制覇に貢献。日本シリーズでも西武を破り日本一に輝いた。自身も2年目で20本塁打を記録するなど主軸として活躍した。

・3年目は22本塁打を放ち、初のベストナインを受賞。8月24日の横浜戦でレギュラーシーズン初の4番を打つ。

・4年目は自身初の開幕4番スタートだったものの5月からは落合博満が4番に返り咲き、松井は3番に戻った。その後チームの上昇と共に成績も上昇し、7月、8月には2ヶ月連続で月間MVPを獲得するなど大逆転優勝に大きく貢献し、初のシーズンMVPも受賞した。また、リーグ最終戦まで山崎武司、大豊泰昭と本塁打王を争い、山崎に1本リードされて迎えた10月8日中日とのシーズン最終戦では自身初の1番打者として出場したものの4打席すべてで敬遠されタイトルを逃した。
それでも22歳での38本塁打は王貞治に並ぶ年齢別最多本塁打記録であり、同一投手からのシーズン最多本塁打のタイ記録7本塁打を斉藤隆から記録した。
最終的には打率.314、38本塁打、99打点で名実ともにスーパースターの仲間入りを果たす。
契約更改では倍増の1億6000万円で一発サインし、高卒選手ではイチローと並ぶ史上最短(当時)の入団4年目で1億プレーヤーとなった。

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