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楊貴妃はただ愛されただけだった。しかし、歴史は変わった。

傾国の美女という汚名まじりの称賛を受けてきた楊貴妃の生涯をスーパー・ダイジェスト。

更新日: 2018年05月03日

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来栖崇良さん

719年

蜀(四川省)の下級官吏の楊玄淡の四女として生まれる。



楊貴妃は幼いころに両親を失ったため、叔父の家で育てられる。

楊貴妃を溺愛する男

8世紀初頭の唐(現 中国)の第9代皇帝。


馬術、弓術などの武術に優れ、さらに学問に長け、さまざまな楽器を巧みに弾きこなし、作曲の才能にも恵まれていた。

儒学の影響から進歩的な人権主義者であり、障害者や貧しい者のための病院を建設する。


当時の中国の君主は、神官としての職務もあったため、ひどい干ばつに襲われた時に、玄宗皇帝は3日3晩にわたって、飲まず食わずで天からの水を願って祈ったので数日で痩せてしまうが、心配する廷臣に「自分は痩せて良い。万民を太らせねば。」と言ってみせる。

楊貴妃の類い稀な美しさは、幼少から知られるところとなり、宮女として後宮に入る。



17才になると玄宗皇帝と武恵妃の子である李瑁(りぼう)の妃として迎えられた。




後宮には、3千人もの宮女がいたといわれており、並みいる美女の中で楊貴妃に目が止まった事は、楊貴妃の並外れた美しさだけでなく輝くような存在感があったことを物語っている。

夫の父に見初められて

玄宗皇帝が56才の時、妻の武恵妃が40才で病死する。


妻を失った悲しみで、元気を失っていた折に、楊貴妃に魅せられる。


そして、なんと、玄宗皇帝は息子の李瑁から楊貴妃を召し上げた。

そのまま楊貴妃を自分の愛人にしたのでは、いくらなんでも世間体が良くない。


そこで、一時的に楊貴妃を坤道(道教の尼)にする。


そうして、息子から妻を奪うという構図にワンクッション入れた。

745年、玄宗皇帝は楊貴妃に、後宮の宮女3千人の中で最高位となる「貴妃」の位を与え、公に後宮に迎い入れる。

叔父の楊玄珪、兄の楊銛は高い官職が与えられ、従兄の楊錡は玄宗皇帝の愛娘である太華公主と婚姻を結ぶこととなる。


3人の姉も「国夫人」という高い位を授けられ、それぞれ、韓国夫人、かくこく(常用漢字でないため平仮名)夫人、秦国夫人として、毎月高額の化粧代が支給された。


故人である両親にも、父の楊玄淡は「兵部尚書」に、母の李氏は「涼国夫人」の称号が追贈され、楊貴妃は良家の娘と位置付けられる。


さらに、飲んだくれで風来坊に過ぎなかった又従兄(はとこ)の揚国忠(ようこくちゅう)は、国家NO.2格である「宰相」にまで登りつめ、宮廷全体を牛耳るほど権力を手にするようになっていく。

玄宗皇帝は楊貴妃にのめり込む一方となる

楊貴妃からは龍脳(香料の一種)の香りが遠くまで届き、衣を通してその香りがスカーフに移り、さらに、夏の暑い日に楊貴妃が流した汗はよい香りがするほどだった。


楊貴妃は容貌が美しく、髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、物腰が柔らかで、あらゆる楽器を自在にこなし、踊りを踊らせれば翔ぶように見事に舞い、その歌声も天下一品であったと伝えられている。

玄宗皇帝は作曲もするほどの芸術肌の人間だったので、音楽の才に秀でた楊貴妃は、趣味嗜好を共有できる親友のような存在でもあった。


一緒にいると幸せで仕方ない。



息子の妻ですら奪える絶大な権力を持ち、美女など選びたい放題の立場にありながら、玄宗皇帝は楊貴妃を四六時中そばに置く。

玄宗皇帝は、楊貴妃の大好きなライチ(茘枝)を少しでも新鮮な状態で食べさせたい一心で、何千キロも離れた嶺南から長安(現 西安)まで早馬で運ばせた。


人々は、砂煙をあげて走り去る早馬を見て、それがまさか楊貴妃個人の嗜好を満たすためだとは思わず、急ぎの公用だと思っていた。

愛する楊貴妃のためなら、どれほど公務が妨げられようとも、玄宗皇帝はおかまいなしになっていた。

しかし…夢のような時間は永遠ではなかった…

752年


ついに楊貴妃の又従兄である楊国忠が宰相に登りつめ、楊一族の私欲に満ちた横暴は目に余る激しいものになる。


そんな折に、安禄山(あんろくざん)という男が、楊国忠の地位を脅かす存在になってきたため、楊国忠は安禄山をひどく冷遇する。


755年、身の危険を感じた安禄山がついに反乱を起こす。

安禄山は長年、北方異民族から首都を防衛するためにつくられた節度使という軍隊の長官であった。

節度使は唐の全土に10個軍団を展開しており、そのうち笵陽(北京)方面の3軍団を安禄山は自在に操れる立場にあった。

そのため、安禄山の起こした反乱は15万人におよび、その大軍が長安(現 西安)を目指す。

破竹の勢いで進軍してくる反乱軍が、首都長安になだれ込んでくるのは時間の問題であった。

恐怖におびえた玄宗皇帝は、楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らを引き連れて、蜀(四川省)を目指して長安を脱出する。

しかし、同行する兵士達は次第に逃走に疲れ、疲れと共に反乱軍への恐怖が増していった。

そんな疲れや不安の矛先が、反乱の原因となった揚一族の横暴に向かうようになり、馬嵬(陝西省興平市)に至ると、楊国忠を強く憎んでいた武将の陳玄礼(ちんげんれい)を筆頭に兵士達は、楊国忠を殺害し、その首を槍で串刺しにして晒した。



楊貴妃の姉達も惨たらしい殺され方をする。

そして、楊一族の中で、楊貴妃一人が残された。

陳玄礼らは玄宗皇帝に対して、楊貴妃の殺害を要求する。

高力士は唐再興のために必要な決断だと玄宗皇帝に必死に懇願した。

楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい。」と言い残し、首吊り死する。




やがて、玄宗皇帝は幽閉同然の身となり、楊貴妃の遺体にあった香袋を愛おしそうに手にしながら寂しさに耐える毎日を送った。



また、画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。

現在

楊貴妃にあやかろうとする人々が、碑の一部を削って持ち帰るため、大きさは半分ほどになっている。



また、その墓の土を化粧の時に混ぜて使えば、楊貴妃のように美しくなれるという伝説があり、土を持ち帰っていく者も多い。

【 歴史に名を連ねる美女達 】

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