1. まとめトップ

ブルボン家の罪を一身に背負ったハプスブルク家公女マリー・アントワネット

時代の荒波はフランスの民衆に、ブルボン家の圧政の清算をオーストリアからやってきた王妃マリー・アントワネットに求めさせた。

更新日: 2018年12月29日

28 お気に入り 72192 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

来栖崇良さん

王妃の御用画家であったルブラン夫人は「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりに透き通り、思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった。」と述べた。






教育係であったド・ヴェルモン神父は「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない。」と述べている。

神聖ローマ皇帝フランツ1世と、ハプスブルク家当主オーストリア大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生する。





ダンスやハープやクラヴサンなどの演奏が得意で、シェーンブルン宮殿にて、マリア・テレジアへの御前演奏に招かれた6歳のモーツァルトから7歳だったアントワネットがプロポーズされたというエピソードがある。

当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から、それまで敵対していたフランスとの同盟関係を深めようとした。


その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策する。






1770年5月16日、アントワネットが14歳の時、ルイ16世との結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行された。

結婚すると間もなく、アントワネットは、夫の祖父ルイ15世の寵愛を受けていたデュ・バリー夫人と対立する。



もともとデュ・バリー夫人と対立していたルイ15世の娘アデライードらに焚きつけられたのがキッカケであった。



さらに娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を汚らわしく思い、不衛生なものを避けるように徹底的に無視し続ける。

宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れた。

ルイ15世はこの対立に激怒し、アントワネットは仕方なしにデュ・バリー夫人に声をかけることに決めたが、アデライード王女に遮られた。


その後、ハッキリとした和解はないものの、表面的な対立が終結すると、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになる。

1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。

王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化したり、ヴェルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。



アントワネットは、地位によって便器の形が違ったりすることがステイタスであったりすること等が非常に下らなく感じていたが、それらは宮廷内の人々にとって大切にしてきた優越感であったため、それらを奪ったことで反感を買うことになる。




また、通説どおり派手好きで浪費家で自由奔放な遊び好きであったため、噂を耳にした母マリア・テレジアは行く末を非常に心配していた。

アントワネットは地味な夫ルイ16世を見下していたこともあり、スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンと密会を重ね、その関係が宮廷で噂された。




そうした中で、アントワネット派に加われなかった貴族達は、こぞってアントワネット派を非難し、宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まる。



こうした誹謗・中傷が、やがて、パリの民衆の憎悪をかき立てることにもつながった。

フランス革命

耐えがたい生活苦からフランス民衆の王政への怒りが爆発し、フランス革命が勃発する。

パリ広場に集まった7000人の主婦達がヴェルサイユに向かって行進し、国王一家は拘束され、ヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移された。

アントワネットは恋仲であったスウェーデン貴族フェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。



1791年6月20日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出した。




フェルセンは質素な馬車でルイ16世とアントワネットが別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢なベルリン馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や酒蔵一つ分のワインを積め込んだため、ただでさえ遅い豪奢なベルリン馬車はさらに遅くなり、逃亡計画を大いに狂わせる。

一家は、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻された。



この逃亡未遂は大きな反感を買うことになり、国王一家はタンプル塔に幽閉される。

1793年、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下した。

息子である王位継承者ルイ・シャルルはジャコバン派の靴屋シモンにひきとられた。


身分の高い温室育ちのルイ・シャルルに世間の厳しさを教えようと張り切るシモンの指導は、年上の部下を見下す快感さながらにテンションが上がっていく。


やがて、暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力が増していき、ルイ・シャルルからかつての快活さは消え去り、臆病な性格にガラリと変わったという。

アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航するが、最終的には死刑判決を受け、1793年10月16日、コンコルド広場においてギロチン送りに処せられることとなった。





処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛てに「無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」という内容の遺書を書いた。

処刑日、アントワネットは髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られ、肥料に使う糞尿を運ぶ荷車でギロチンへと引き立てられる。



死刑執行人の足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった。」と微笑んだのが最期の言葉となった。

ギロチンが下ろされ処刑された彼女を見た群衆は「共和国万歳!」と歓喜の絶叫をし続けた。

現在では、有名な「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」をはじめアントワネットに対する悪評は誇張した中傷やデマであることが判明している。





そもそも、アントワネットは飢饉の際に、宮廷の養育費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなどしており、贅沢好きだが貧乏人の命を軽んじていたわけではなかった。







また、アントワネットがフランスの財政を空にしたというのも誇張で、過去の王達が愛人を多数囲って使った膨大な金と、戦争による巨額の支出で、フランスの財政は先代ルイ15世の時代に既に傾いていた。

【 関連まとめ 】

【 歴史に名を連ねる美女達 】

1