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【沖縄戦の真実】 沖縄戦が「捨て石作戦」と呼ばれる理由

「捨て石」という言葉は、沖縄県民が言い出したものではない。第32軍(沖縄軍)の将官らが語った「捨て石作戦」という言葉が、戦後になって、沖縄戦を語る言葉となった。また、戦艦大和も航空特攻も沖縄軍の「援軍」とはならなかった。

更新日: 2017年09月26日

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はいたい、恵です。【沖縄戦の真実】をお届けします。

日本軍は、沖縄戦をもって本土決戦のための時間稼ぎと考え、沖縄を『捨て石』としたといわれます。

沖縄を『捨て石』としたというのは嘘だという人もいます。
なかには「沖縄は要石だった」などと言う人すらいますが、それこそ戦後になってアメリカ軍が言い出したことであって、昭和19年にサイパン防衛線が怪しくなるまで沖縄には軍隊がいなかったくらいなのですからデタラメにもほどがあります。

どうして沖縄戦が、「捨て石作戦」と呼ばれるようになったのかを検証していきます。

沖縄戦が、「捨て石作戦」と呼ばれた背景

戦力不足に陥った沖縄に限った省令で、14歳の少年をも戦闘に駆り出した。
少年兵 の半数が、戦死した(鉄血勤皇隊)。なかには戦車への斬り込み攻撃によって爆死した者もいる。

沖縄守備軍は、アメリカ軍撃破を目指した『決戦構想』でした。

昭和19(1944)年3月に、沖縄を、絶対国防圏を死守する航空要塞化するために飛行場建設の部隊を派遣したのが、第32軍(沖縄守備軍)の始まりです。

昭和18年9月になって絶対国防圏を設定した。
絶対国防圏のはるか後方である南西諸島の防衛は18年末には全く重要視されていなかったが、万が一として陸軍第2作戦課長服部卓四郎大佐は、神直道少佐に研究を命じた。
 予想をはるかにしのぐ早さでの米機動部隊来襲に慌てた大本営は、国務と統帥の協調を図るとして東条英機が陸軍大臣と参謀総長を兼任するなどの非常人事と時を同じくして、19年2月に南西諸島の防衛に乗り出した。
3月22日に第32軍が創設され、航空基地の設定が命じられた。

 7月にサイパン島玉砕すると、大本営は、7月下旬に決戦準備(捷号作戦)を下令。南西諸島の兵力増強を決意し、軍司令官も牛島満中将が新たに任じられた。

 当時、沖縄県は、硫黄島など小笠原諸島、奄美諸島、千島列島、台湾などとともに「前縁地帯」と呼ばれて帝国本土とは区別され(『帝國陸海軍作戦計画大網』など)、連合国軍の本土進攻を阻止する最後の防衛線とされた (「前縁地帯」が天号作戦の対象地域となった)。

 大本営陸軍は『沖縄防衛のため』に、3個師団と当時最強と呼ばれた砲兵団を沖縄へ投入した。

 ただし、これでも全くの不足でした。 第32軍(沖縄守備軍)の要求は5個師団でしたから、戦力不足は否めませんでした
(なにしろ「米戦艦1隻当たりの艦砲射撃が、日本軍5個師団、もしくは爆撃機1250機に相当する」とすら言われていたのですから。)

 とはいえ、ともかくも
 1944年6月の時点では、大本営も(海軍だけでなく陸軍も)、沖縄を単なる『捨て石』とするつもりではなく、決戦準備として投入された陸軍第32軍(沖縄守備軍)も意気盛んでした。
(正確に言えば、勝てるとは思っていませんでしたが、「沖縄決戦」で、よい条件の講和に持ち込めるかも(『一撃講和』)と考えていました)

 当初は、「水際防御作戦」で、アメリカ軍を海岸で食い止め一歩たりとも沖縄へ入れず、飛行場を死守するという計画でした。
 10月下旬、糸満海岸で実弾大演習も行い、自信を深めていました。

ところが、
 大本営海軍部が発表した台湾沖航空戦とレイテ沖海戦の誇大戦果を信じた陸軍部は、レイテ島決戦へ向け台湾から増援を送るが、(海軍発表の戦果はでたらめだったため、)アメリカの大軍の前に大敗北を喫する。

 そこで台湾軍の戦力補充が必要となり

昭和19年11月。
大本営は、沖縄守備軍の反対を押し切って、精鋭部隊の第9師団を台湾へ移動させました。

これに先立つ台湾会議に、牛島司令官は次のような意見書を提出した。
「兵団を抽出された島の防衛に関しては、責任を負うことができない」、「兵団を抜かれるくらいならば、32軍は決戦場であるフィリピンに参戦することを希望する」 精一杯の抵抗でしたが、効果はなかった。

まず、この第9師団抽出が「転機」として取り上げらます。

 たしかに、精鋭の第9師団の抽出は痛手でした。第9師団の装備も丸ごと引き上げられたのですから。第32軍は、これを契機に戦術を内陸での「持久戦」にシフトし始め、飛行場の放棄を決め、陣地構成なども変更しました(※1)。

 しかし、後日、第9師団に代わる新たな師団投入が大本営から第32軍に約束されており、手当てがされるはずでした。第32軍の首脳たちもまだ大本営との意思疎通を図ろうと努力しています。

※1 米軍は、要塞の築かれたサイパンを物量にまかせた激しい艦砲射撃によって「水際防御作戦」の無効化に成功した。それ以降、まずは激しい艦砲射撃を行う作戦とした。もともと戦力に乏しい32軍は、航空作戦への懐疑とともにどうすべきか迷っていた「水際防御作戦」の取り止めを、第9師団の抽出でようやく決心できたという側面もある。

ところが、なにより決定的となった事態が、第32軍を襲います。

 これにより、第32軍の首脳の大本営への不信感は極限に達し、八原高級参謀は、「これ以降、作戦は第32軍だけで立案し、大本営にも台湾軍にも相談しなかったし、一人として沖縄に視察に来る者もいなかった。」と。

昭和19年12月。
大本営が「大きな戦略変更」をします。

大本営参謀本部長に異動があり
新たに就任した宮崎周一中将が、フィリピン捷一号作戦の失敗を見て、

「島嶼攻防戦を放棄し、本土決戦の準備に全力を注ぐ」

という決定をしました。

出典戸部良一ほか 『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』

大本営が必ず確保できると自信をもっていたサイパン島が7月に陥落して絶対国防圏の構想が崩れ去った。さらにフィリピンでも敗走を重ねたことで、宮崎参謀本部長は、もはや島嶼攻防戦すなわち沖縄戦での『一撃講和』は不可能と判断した。

 宮崎参謀本部長は、前任の真田穣一郎部長の指示で進められ、梅津参謀総長の決済も得て第32軍に内示までしていた、(第9師団に代わる)第84師団の沖縄派遣を、「本土決戦の準備に集中させる」として、中止させました。

 さらに物資補給もほぼ停止してしまいました。
 なお、宮崎参謀本部長は、すべての停止を命じましたが、服部作戦課長の懇願により、少量の軍需品の補給を1度だけ行いました(なお、第9師団を沖縄から引き抜いたのが服部作戦課長でしたから、その失敗を挽回しようとしてのことだったでしょう)。
 この服部作戦課長の涙ぐましい努力からも、宮崎参謀本部長に代わる前の戦略を実施するには、沖縄の軍備は不足していたことが見て取れます。

 なお、制空権、制海権を失って輸送を断念せざるを得なかったのだという者があるが、誤りである。
 12月でも第62師団への兵員輸送は続いていた。宮崎参謀本部長に交代するまでは。また本土から台湾への輸送も続いていた。
 (余談だが、このころに移送された兵は第62師団ですら銃ではなく、竹やりを持たされていたという)

 そして、宮崎参謀本部長は、「事後の不足は現地の人的物的資源を最大限に活用せよ」と現地自活主義の徹底を命令した。
(もともと日本陸軍は兵站を軽視しており、食料など軍需物資も現地で調達するという現地自活主義が基本で、南方戦線では多くの餓死者を出しました)

宮崎周一参謀本部長は、後年に「頼むは『石に立つ矢』の念力のみであった。」と回想しています。沖縄を見捨てて物資補給を禁じてなお、それでも竹槍でもってB29を落とすがごとき念力のみで戦う以外はなかったというのです。

これには、第32軍も、「沖縄決戦を」(『一撃講和』)との意欲を喪失した。

牛島司令官は、長参謀長に「沖縄作戦は、これで負けと決まったね」と語った。

長参謀長は、それから毎日、酒ばかり飲んでいた

出典大田昌秀 「

八原参謀は、長男に「沖縄軍は必ず敗れる。」という手紙を出している。

戦後には、「現地の首脳は戦闘開始数ヶ月前から希望を失っていたのだ。決戦は本土でやると公言し、沖縄守備軍は本土の前進部隊だと断じておきながら、現地軍に戦勝を期待するのは本末転倒も甚だしい」とも

出典稲垣 武 「沖縄 悲遇の作戦―異端の参謀八原博通」

大田實少将は、「友軍は沖縄から徴兵した兵隊を合わせても10万足らず。米軍は50万人の兵力を投入するだろう。これではとても太刀打ちできない。どうせ勝ち目はない」と

帝国陸軍に比して、帝国海軍は、まだ「沖縄で決戦を」との意欲といいますか、「本土決戦」はあり得ないとの考えを持っていました。

それでも、兵員の大半が実戦経験がなく、小銃が3人に1丁と手製の手榴弾、竹やりという有様ですから、沖縄の海軍陸戦隊トップ大田實少将も、「沖縄で決戦を」との意欲を失っていたことが分かります。

『竹やり』は、婦人防衛隊のもののように言われますが、沖縄軍の主要装備でした。

陸軍第32軍(沖縄軍)のトップ3人と、海軍陸戦隊のトップが、戦闘準備も進まぬうちに、そろって、意欲を喪失し、「必敗」を予告しているのです。
 ここに意欲とは、「沖縄決戦」意欲。意欲を喪失し、以後は、『捨て石部隊』であることを自覚したのです。

さらに、
戦局がひっ迫し、いよいよ『本土決戦』が現実味を帯びるなか、
宮崎参謀本部長は、12月の「大きな戦略変更」を、明文化しました。

20年1月には
大本営は、『帝国陸海軍作戦計画大綱』を策定しました。

宮崎大本営参謀本部長は
「沖縄戦闘は、本土戦備のために時間を稼ぐ持久戦である。第32軍は手持ちの戦力をもって、出血持久戦を死闘することが、皇軍の使命を全うする所以」と訓示した。

出典毎日新聞 戦後70年:数字は証言する データで見る太平洋戦争

帝国陸軍は、沖縄決戦(『一撃講和』)から『本土決戦』へと、完全に戦略を変更しました。

 これを受けて、20年4月にアメリカ軍が沖縄本島上陸したときには、第32軍は「捨て石」の覚悟を決めていました。
 せっかく整備した飛行場をつぎつぎ破壊、放棄しており、戦闘目的は『時間稼ぎ』と、はっきり自覚していました。

 ちなみに持久戦は、「いかに兵士の士気を高く保つか」に尽きます。士気を高く保つには、兵士の体力の維持が重要になります。
 しかるに大本営は、物資補給すらも断っておいて、離島で持久戦を死闘せよというのですから、何をかいわんやです。

アメリカ軍上陸の翌日、4月2日には、当の宮崎参謀本部長は、
「結局 敵に占領せられ、本土来寇(らいこう)は必至」
と首相に報告している。

アメリカ軍が無血上陸した翌日のことですよ。第32軍は、まだほとんど戦闘をしていない時です。

もし彼が、「沖縄を守る」意思で、アメリカ軍上陸に向けて作戦計画を考えていたならば、そのような時期に決して出てくる言葉ではありません。

「沖縄を守る」意思など、みじんもなかったのです。

こうして、大本営の「大きな戦略変更」が行われたことが、「捨て石」という言葉を生んだ。

軍需品の補給すら断たれた第32軍は、その後も大本営に翻弄され、悪戦苦闘することになります

そして、「南部撤退」を選択したことにより、『時間稼ぎの持久戦』という目的は、より明白に表現されました。

「捨て石」という言葉は、日本軍将官が言い始めた

さて、この「捨て石」という言葉は、戦後になって反戦運動家が言い始めたというような誤解があります

「捨て石作戦」とは、戦後になって、名付けられたわけではない

沖縄戦に投入された第32軍(沖縄軍)の将兵や、その上位軍である台湾軍参謀長が、語った言葉が、戦後に伝わったのです。

昭和19年12月。
大本営から「戦略変更」を伝えられた第32軍の長参謀長は、

「結局、我々は本土決戦のための 『捨て石部隊』なのだ。
尽くすべきを尽くして玉砕するしかない。」

と諫山台湾軍参謀長や八原参謀に対して語った。
(皆、うなづくしかなかった。)

出典吉川成美「死生の門=沖縄戦秘録」

大本営に、これ以上の(兵員も物資も)支援はしないから、(『竹やり』が主要装備の)手持ちの戦力だけで、とにかく時間稼ぎのために、アメリカ軍にしがみつけ。勝つことは期待していない。とはっきり宣言されたわけですから。

沖縄戦を戦った第32軍(沖縄軍)(司令部)もまた、『捨て石部隊』であると自覚していたわけである。

すなわち、沖縄戦は、
客観的な事実として、悲惨な「捨て石作戦」であったばかりでなく、
主観(戦った将官の気持ち、大本営の作戦計画)としても、「捨て石作戦」であった。

 ただし、第32軍(沖縄軍)も「捨て石」と自覚(司令部)しながらも、懸命に戦った。
太平洋戦争でアメリカ軍に最も多大な被害を与えたのは、沖縄軍であったと思う。

 末端の兵士や沖縄県民は、大本営発表の「大戦果」を信じて奮戦しており、「捨て石」との自覚はなかったであろう(後述)。

ちなみに「捨て石」とは

なお、「捨て石」というのは、囲碁の作戦から来ています。
大きな利益を守るために、小さな利益を犠牲にすること(利用すること)です。

単に不要物として、捨ててしまうことではありません。

「捨て石」は、最終的には 見捨てられる運命ですけれども、「捨て石」であるからには、まずは見捨てられる前に「主たる利益を守る」ために「役に立つ」ことが期待されるわけです。

大本営は「沖縄島に尺寸の土地が残る限り一兵まで戦え」と打電しました。

この本土の「役に立つ」ことこそが、第32軍(沖縄軍)であり、沖縄及び沖縄県民の奮闘であったのです

ここを勘違いして、「捨て石なら沖縄に戦力を投入するわけがない」などと反論する人が多いが、それは「捨て石」の意味を誤解している。

「盾」とか「防波堤」などとも意味合いは同じです。

 陸地や港を守るために「防波堤」は、自己を犠牲にして荒波と闘う。
 「防波堤」が壊れないかと心配する人も、内実のところ、それは陸地や港へ被害が及ぶことを心配しているに過ぎません。

 その「防波堤」も、沖縄本島という土地だけならまだしも、
「防波堤」の上にいる人も荒波に飲まれていきました。

 そして、最終的には(利用された揚げ句に)見捨てられるんですよ、「捨て石」も「防波堤」も。

沖縄戦を戦った将官たちは、
本土を守るために犠牲になることを「捨て石」と表現したのである。

そして、本土戦備のために時間を稼ぐ持久戦を命じられた第32軍は、命令に従い、「尺寸の土地が尽きる」、最南端の摩文仁の丘まで撤退し、多くの住民を巻き込みながら、一兵となるまで戦ったのです。

 牛島司令官は自決の前に最後の命令を発し「最後まで敢闘せよ」と、降伏を許さず「捨て石」の任務まっとうを強いた。

 司令官が自決して敗戦処理責任さえ放棄したため、沖縄戦は「終わりの見えない戦争」となり、ゲリラ戦とガマに隠れる生活は9月まで続いた。

 こうして(望むと望まざると)沖縄軍も、沖縄県民も「捨て石」として、最後まで敢闘した。「捨て石」としての役目を果たした。

 そして、最後には見捨てられた。
これ以上は役に立たないとなったところで見捨てられた。

なお、「捨て石」とされたのは、彼らだけではなかった。

  (次に、「戦艦大和の海上特攻」などを考察していきます)

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