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【ヒストリア】大阪夏の陣で散った英雄・真田信繁の最期~日本一の兵(つわもの)~

三度に渡る徳川家康本陣への突撃。三方原の戦い以来倒れたことのない馬印が倒れるその猛攻に、徳川家康が何度も切腹を口走る。後日島津家久から「日ノ本(ひのもと)一の兵(つわもの)」と賛辞を贈られた男の中の男の最期に迫る。2016年大河ドラマ「真田丸」で描かれる武士の本懐が楽しみです!

更新日: 2018年08月10日

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orihoanさん

そもそも大阪夏の陣は「方広寺鐘銘事件」で家康にイチャもんを付けられてはじまりました・・・(悲運)

真田幸村(信繁)の今日伝わる武勇は、大阪夏の陣での姿によるものといっても過言ではありません。 今回は、真田幸村が最後に戦ったとされる「大坂夏の陣」についてご紹介しましょう。

真田丸ってここ10年くらいの大河で5本の指に入る面白さだよな - ニッコリン niccorin.com/archives/48976…

先に勃発した「大阪冬の陣」で、真田幸村が味方する豊臣軍は“籠城(ろうじょう)戦”で徳川軍に対抗しました。
攻め手の徳川軍は、真田丸(さなだまる)をはじめとした抵抗に決め手を欠いていました。

そこで徳川家康は、当時最先端の長距離砲を使用し、一方的に大坂城を砲撃し続けたのです。
大坂城にも大砲が配備されていましたが、射程で劣っていました。日々降り注ぐ砲弾に脅え続け、ついに耐え切れなくなった豊臣軍は徳川と和睦し、「大阪冬の陣」は終結しました。

和睦の条件として、徳川家康は「大坂城の外堀」と「真田丸」の破壊をつきつけました。

「外堀」は大坂城を”無敵の要塞”と化している大きな要素の一つであり、それを失った大坂城は丸裸になることになりました。
さらに徳川軍を苦しめた真田丸をも失い、大坂城は戦う能力の多くを奪われてしまいました。

それからまもなく徳川家康は再び軍を率い、大阪へ攻め寄ります。

先述の通り大坂城には戦う力がなく、そして敵となる徳川の力はもはや誰も逆らうことが出来ない程、絶大なものになっていました。
こうして「大坂夏の陣」が開戦したのです。

このとき冬の陣での活躍から、真田幸村は豊臣軍の中心人物の一人となっており、他の将との連携を取れるようになっていました。

豊臣軍は冬の陣とは異なる“野戦”を選択しますが、徳川軍に劣勢を強いられます。

前線で窮地に陥った後藤又兵衛(ごとうまたべえ)らを救うべく真田幸村は救援に向かいますが、濃霧に苦しめられ到着が遅れてしまいます。
結果的に豊臣軍は貴重な戦力を失い、撤退を余儀なくされました。

真田幸村は殿(しんがり)という、味方の最後尾で追っ手を討つ危険な役目を全うし、味方の撤退を成功させたと言われています。

やがて豊臣軍にはわずかな戦力しか残されておらず、「もはや奇襲によって徳川家康を討つしかない」という決断にいたります。

真田幸村はこの奇襲隊に加わります。
部隊の装備を赤で揃えた「真田赤備え」隊を編成、諸将と連携して家康本陣への突撃を敢行します。

真田の「赤備え」とは

赤備えは元々、武田信玄が重用した千騎ほどの先発隊が発祥とされています。

この部隊がとても強く、赤備えは選び抜かれた屈強な精鋭部隊という認識が固定化したとされています。
また赤色は戦場で目立つため、部隊の活躍がより一層印象づけられたのでしょう。

さらに当時は朱色の染料が非常に貴重で高価なため、特別な事がなければ装備一式を朱色に染めることなどできないという状況も、赤備えを特別化した要因の一つでしょう。

赤備えを採用した武将は何人かいますが、真田の赤備えについては少々事情が異なります。
真田幸村が赤備えを採用したのは「大阪の陣」での事です。
真田幸村が率いていた部隊のほとんどはお金で雇われた傭兵です。
真田家に長年使えてきた信頼できる家来でもなければ、精鋭部隊でもありませんでした。

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