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【ヒストリア】大阪冬の陣で徳川軍を苦しめた真田信繁による難攻不落の要塞「真田丸」とは

それは人の名前ではなく、要塞の名前である。戦上手の父の真田昌幸が指揮した上田合戦において、馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。その見事な采配により大阪冬の陣は和睦に終わるのである。

更新日: 2018年11月12日

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orihoanさん

「真田丸」ってなんだろう?

真田丸(さなだまる)は、1614年(慶長19年)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が豊臣期大坂城平野口の南に構築した曲輪(出丸)である。

真田丸視聴後の興奮冷めやらぬ…ってもう一時間経過しとるわ。 風呂って寝よう、おやす味噌。

僕は真田丸で大坂方好きになる人が増えてくれればいいのです

豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などに守られた堅城であったが、真田丸の築かれた地続きとなる南方だけは空堀を設けたのみで、防御が手薄で大坂城の脆弱部であると思われているが、これは誤った認識で、千田嘉博によると「大坂城の最弱部は、上町台地の中央部、真田丸の西のあたりであり、ここは地形の高低差が少なく、惣堀の幅も狭い。

BSプレの「風雲!大歴史実験」の真田丸の回を録画で見てる。実際の城を使って、どのように徳川の侵攻を防いだかをやってて面白い。

信繁は、真田丸という突出部を築くことで、真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくした」のである。さらに真田丸の背後には幅200メートルにもおよぶ深い谷があり、信繁は、真田丸がたとえ落とされたとしても、その谷が大坂城を守りつづけてくれると見越して、この場所に真田丸を築いたのであると指摘している

1614年(慶長19年)、豊臣氏と徳川方が一触即発状態となり、大坂方は諸国から浪人衆を集める。幽閉中の高野山から脱出して大坂城に入城した真田信繁は、積極的な出撃を主張するが、大坂方は篭城策を採る。信繁は1600年(慶長5年)に、父の真田昌幸が指揮した信濃国上田城(長野県上田市)における上田合戦(第二次)において馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。

父・真田昌幸は戦上手で有名であった。

大阪冬の陣の開戦である。

12月4日(1615年1月3日)早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込んで破ることに成功した。

真田丸の北側には幅200メートルの谷があることから大坂城惣構えから孤立した立地にあり、大坂城の惣構えと隣接していたとする通説が誤りであることが判明した。規模について、千田嘉博は通説の南北220メートル、東西140メートルよりも大きかったのではないかと指摘し、坂井尚登によると、小曲輪を含めると南北270メートル余、東西280メートル余(堀の幅は除く)と推定している、半円形の曲輪で、出口は後方と両脇に位置。三方に堀・塀を配し、外側には三重の柵を敷いた。陣図屏風などの絵図では、方型の角馬出しとして描かれる。

真田丸が難攻不落の機能を遺憾なく発揮したといわれている。

徳川軍の迫る南側だけでなく、大坂城に面した北側にも堀を設け北側からの攻撃にも対処した曲輪を備えて描かれていたことから、すなわち真田丸が惣構えに従属した施設だったのではなく、全方向からの攻撃に備えた独立した出城であったことが判明した

真田丸を設けた目的は、大坂城の弱点補強のための簡易的な出丸ではなく、徳川軍をおびき寄せて打撃を与える、より積極的な「攻撃のための出城」であったことがと指摘されている

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