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【沖縄戦の真実】 「鉄血勤皇隊」の少年兵 ひめゆり部隊より過酷な学徒隊(沖縄戦の調べ学習)

(沖縄戦の調べ学習用)沖縄戦では 「鉄血勤皇隊」という学徒隊(少年兵部隊)が結成されました。14歳の中学生が兵隊にさせられました。爆弾を背負って戦車に突撃するなどの戦闘に参加させられ、約半数にあたる約900人が戦死しました。沖縄戦の調べ学習用に、できるだけ簡単な言葉で解説しています

更新日: 2019年03月12日

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この記事は私がまとめました

沖縄修学旅行を前に沖縄戦についての調べ学習をされる中学生、高校生も多いことでしょう。
 ところが、あなたたちの祖父母ですら戦後生まれで戦争体験がないという時代になり、「戦争」とか「地上戦」と言われても、なかなか身近に考えることは難しいかもしれません。
 しかし、ここに登場してくるのは、あなたたちと同じ年頃の中学生です。
沖縄の中学生が、あなたたちと同じ年齢の頃にどのような運命に置かれたかを通して、沖縄戦の過酷さを知ってください。

 沖縄戦では 「鉄血勤皇隊」という学徒隊(少年兵部隊)がいました。
(沖縄でだけ)14歳の中学生たちが、爆弾を背負って戦車に突撃自爆していきました。

(以下には「えげつない表現」も含まれてます。しかし、ほかに表現のしようがないのです。それが戦争なのです。了承の上、お読みください)

鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)

鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)は、沖縄戦で大日本帝国陸軍がおこなった防衛召集により戦闘に動員された14~17歳の中学生を中心とした学徒隊(少年兵部隊)です。

沖縄戦で日本軍には、少年兵がいました。
少年兵は、人道に反するものとされますが、沖縄戦では、たくさんの少年兵が、戦闘に駆り出され、そして、戦死しました。

沖縄の中学生達が、爆弾を背負って戦車に突撃するなどして、約1200人(そのうち「鉄血勤皇隊」は約890人。ほかに「護郷隊」などがある)が戦死しました。

沖縄戦においては、鉄血勤皇隊だけでなく、「護郷隊(ごきょうたい)」などの少年兵部隊が組織されていました ※1。

 なお、「地上戦」になった沖縄戦の最大の特徴が、老人、女性、そして子どもまでを「戦力化」して、戦場に送り込んだことです。妊婦の女性までが米軍に突撃してお腹の赤ちゃんとともに手りゅう弾で自爆突撃しています。


※1 当時は、義務教育は国民学校(小学校)までで、全員が中学に行くわけではありませんでした(昔の中学は男女別です)。『鉄血勤皇隊』は、中学校や師範学校(しはんがっこう)などに進学した生徒で組織され、「護郷隊」はそれ以外の少年で組織されました。

アメリカ国立公文書記録管理局
「海兵隊中尉ハートH. シュピーゲルが、少年兵として記録」

これは軍服を着用しているが、鉄血勤皇隊に限らず、防衛隊の多くは、防暑服もしくは国民服、学生服などに『戰』(戦の旧字)と書かれた布切れを縫い付けただけであった。
 足はワラジや地下足袋

県立第一中学校は、エリート校であったので、軍服や軍靴なども支給されたようだ。
大人用なので画像でも袖をまくったりしているのが分かる

彼らは尋問に18歳と20歳だと言い張った。
しかし、ヒゲも生えていない。見るからに子供であった

鉄血勤皇隊の任務

第32軍の直轄の少年兵部隊として招集されたのは、アメリカ軍が本島に上陸する直前の1945年(昭和20年)3月末です。そのとき遺書といっしょに爪や頭髪を校長に提出しました。

 「陸軍二等兵」として、大人と同じように戦闘に参加しました。
 いや、むしろ、純真で従順だった(悪い言い方をすれば、子供でだましやすかった )ので、ときに大人の兵士よりも過酷な任務も与えられました。(※1)

 「アメリカ軍の銃は弱っちょろいから軍服すら貫通しない。安心しろ」 純真な中学生の少年兵たちは、こんな言葉すら信じ込んでいました。(実際のアメリカ軍の銃は、自動で何発も発射でき、日本軍の銃の何倍も高性能でした)

 (後述しますが)『鉄血勤皇隊』として召集される前に、各中学校には訓練隊が結成されて、授業はなくなり、毎日、軍事教練と「後方作業」といって日本軍陣地となる壕を掘る作業や食料調達などが日課となりました。(※2)

 3月に防衛召集(ぼうえいしょうしゅう)されて正式な部隊『鉄血勤皇隊』となった後もしばらくは、「後方作業」が中心でした(ただし柔道部など体格の良い者は、最初から斬り込み(きりこみ)隊として訓練を受けた。)。
 しかし、いよいよアメリカ軍が目前に迫ってくると、過酷な任務となりました。戦闘の最前線へと送り込まれることになります。

 爆雷(ばくらい)を背負って戦車に体当たりして自爆しました(戦車への斬り込み攻撃) 。
 戦車の車体は、装甲が厚くて日本の爆弾ではビクともしないので、キャタピラを狙うのです。キャタピラを切断して、泥の戦場で動けなくするわけです。
 そのために爆弾とともにキャタピラにひかれるようにして自爆するのです。
 「体が小さいほうが潜り込みやすい」から(といういい加減な理由をこじつけて)、『鉄血勤皇隊』に命令が出されました。

 戦車はものすごいごう音を立てて走ってきます。ダンプカーよりもさらに怖いですよ。 その戦車に自爆するために突撃するのです。
 しかし、多くは、戦車までたどり着かずに射殺されました。
 (戦車への攻撃は、タコツボ攻撃と言って、穴に隠れていて、戦車が来たら穴から出て爆雷を投げる方法もあったが、10キロの重さがあるため遠くには投げられず、逃げる前に爆発するので、やはり爆死することが多かった。)
 
 そのほかの斬り込み突撃も、大人の兵よりも先に突撃させられました。「沖縄は君たちの生まれ育った場所。君たちには郷土を守る義務がある」と理由をつけて突撃させられました。

 大人の兵士に比べて、中学生少年兵たちは純粋でまじめだった。
「軍の命令は天皇陛下の命令。自分の命は天皇陛下のものです」(※3)と疑うことなく信じて、軍の命令を忠実に守ろうとしたために、よけいに死者を増やした。(中学生の純心を利用した大人たちが許せない)

 ※1 戦争は殺し合いの場ですので、戦場では、どんなに立派な人であろうと「自分が生きる」ことしか考えられなくなります。他人のことを考える余裕がなくなるのです。家族や友達を心配する余裕すらなくなります。大人たちも自分の命だけで精一杯でした。
 戦場では、「自分が生きる」ためには何でもしてしまうのです。「人が人でなくなるのが戦争」と兵隊に行った人の多くが証言します

 さらに、戦争は少年たちをも変えました。心がマヒしてしまいました。
 友達の手足や頭が吹き飛ぶのをたくさん見ているうちに、親友の死を目の当たりにしても悲しみも感じなくなり、そして、いつしか自分が死ぬことに対する恐怖すらも感じなくなりました。

 ※2 沖縄戦が始まる前から、小学生も飛行場建設のための土運びなどに動員されていました。これも「志願」という名目でしたが、少しでもさぼると軍人から「鉄拳制裁(てっけんせいさい)」を受けました。なお「対馬丸(つしままる)」という疎開船の話を知っている人もいるかと思いますが、疎開できた小学生は、少しだけでした。
 疎開の話は下記リンクでしています。

 ※3 少年綱領
 一、我等は陛下の赤子なり
     日夜大御心を奉礼し、尽忠報国の赤誠を捧げん。
 一、我等は皇国の少年なり
     常に皇国の道を修練し、文を修め武を練り以てよき日本人たらん。
 一、我等は興亜の少年なり
     協力一心勤倹力行以て大任を全うし世界を舞台とせん。

国民学校一、二年生むけの児童信条
 一、天皇陛下のからだです、大事にします、丈夫にします。
 一、日本の子供です、元気で規律正しくほがらかです。
 一、こうあの子供です、強く正しくのびましょう。

(この画像は、運営者の判断により非表示にされています。)
  (木箱を背負った軍服の少年が死んでいる画像)

戦車への斬り込み攻撃

(クリックで拡大 死体の写真ですので注意)
背負っているのが、木箱に10キロの火薬を入れた急造の「爆雷」です。
 この子は戦車に到達する前に自動小銃で撃ち殺された。

 黒い無数の点はハエ。沖縄の5月はもう夏です。ハエがたかりウジがわいて、腐敗ガスで死体は膨れ上がる。兵隊や戦車が踏んで破裂し、5日もすれば泥の一部になった。

また、通信隊(千早隊)としても活動しました。
 無線もありましたがあまり役に立たず、陣地と陣地の連絡のために有線(電話)を敷いた。しかし、何キロもの長い距離を有線を土中深くに埋めていくような余裕はなく、次々と砲弾が撃ち込まれてはあちこちで断線する。その断線を修復しに出るのも「千早隊」の役目でした。砲弾の降る中を駆け抜け修理して回るが、切断される数が多い。爆死する者も居る。結果として、千早隊に多くの犠牲を出しながら、有線がつながって通話ができたのは、1日のうちでせいぜい30分位だったという。
 そうなると、千早隊は、今度は「伝令」として砲弾の雨に飛び出していく任務となる。
同じ内容を書いた手紙を3~4人に持たせて、砲弾、爆弾の中を他の陣地まで走らせます。そのうちの1人が生きてたどり着けば「伝令成功」というような使われ方もした。

 砲弾、爆弾は、雨のように1日中、空から降ってきました。その中を走り抜けていくのです。
 砲弾、爆弾は、爆裂すると、とがった無数の鉄の破片が、銃弾のように飛んできます。それに当たらないようヒュルル~と砲爆弾の飛んでくる音がしたら岩かげなどに隠れます。隠れるのが遅ければ体がバラバラになって死ぬことになります。
大きな1トン爆弾ともなると、300m離れたところで爆裂した鉄の破片が銃弾の速さで飛んできます。

 戦闘機からの機銃掃射や歩兵の機関銃や手りゅう弾で狙われることもあります。(機銃掃射の弾は単3電池くらいの大きさで、先のとがった鋼鉄の弾が1秒間に何十発も撃ち込まれるのです。人間の体なんてひとたまりもありません)

#HY の『#時をこえ』 雨のように降ってくる「火の粉」 ただの火の粉じゃない 爆弾、砲弾の破片のこと とがった金属片が銃弾の速さで飛んでくる 当たったら 内臓が飛び出すし 頭が吹き飛ぶ 赤ん坊だって容赦なく それが雨のよう… twitter.com/i/web/status/8…

死体の処理はもちろんのこと、もう助からないとなった負傷兵を、生きたまま穴に捨てに行かされたりもした。

 住民の避難しているガマに行って 「兵隊が使うから、ここから退去せよ。」とか「軍隊に食料を供出せよ」などの伝令に使われたりした。

 他の兵隊と一緒に、自決(自殺)した人もいます。

 こうして、「鉄血勤皇隊」の約半数にあたる約890人が戦死しました。

 正規の兵隊といえども、食事はピンポン球ほどの大きさの握り飯を1日に1個だけ(※1)。
夜になると水を汲みに壕を出る。爆弾でできた穴に水がたまっていたが、どれにも死体があったので、体液(脂肪)がギラギラと浮く赤い水をすくって飲んだ。そんな水を飲めば誰もが下痢をしていたが、(壕の外へ出れば死ぬので)ほとんど垂れ流しであった。


 ※1 将校(軍のえらい人)達は、まったく別で、魚やパイナップルの缶詰も豊富にあり、毎日、女の人とお酒も飲んでいました。
 大雨の中、首里の司令部壕を撤退するときに、『鉄血勤皇隊』が「軍の重要機密物資だ、雨にもぬらすな」と言われて大怪我をしながら命がけで運んだ箱の中身をたまたま見てしまったら、将校のフンドシでした。

 他方、一般住民は、(当然ながら)兵隊よりもさらにひどかったのはおわかりでしょう。

(以上は、参考資料にあるNHK 戦争証言アーカイブス「鉄血勤皇隊」の証言ほかより)

※ちなみに北部の伊江島に侵攻したアメリカ軍の将校達は、「朝食はタマゴ、牛肉、ベーコン、フルーツジュース、パン、ジャムなどを。映画は毎晩20時より上映された。」という記録が残っている。

「聖戦」と信じて自爆した少年を「殉国美談」(「殉教美談」)として語るのは、いつかどこかで見たような

美談にすることは、けっして「鉄血勤皇隊」の供養にはなりません。ひめゆり学徒隊などの看護学徒隊でも同じです。いかに悲惨で壮絶であったかを直視してください

『鉄血勤皇隊』召集の手続きと(法的な)身分について

「鉄血勤皇隊」の法的地位は、「陸軍二等兵」として、正式な兵隊でした。
ただし、以下のように、防衛召集(ぼうえいしょうしゅう)の手続きに問題がありました。

 Wikipediaの「鉄血勤皇隊」にある召集の法的手続きは難しいことが書いてありますので、沖縄戦の調べ学習用にかみくだいて説明します。

 国民に兵役(へいえき)を科す(兵隊に招集する)には、国会議員が国会で決める「法律」によるべきとされていました。それは憲法で決められたことでした。
 しかし、沖縄戦での兵士不足が深刻であったことから、陸軍省の役人が、沖縄や奄美、小笠原などの本土以外の地域(前縁地帯)に限るとしたうえで、「法律」がなくても14歳以上を兵隊に招集命令できるようにする「省令」を作りました(※1)。

 ただし、国会で決める「法律」もないのに、強制的に中学生を兵隊に招集するのは憲法違反であったので、陸軍省はいろいろと策を練りました。
 まず、中学生が、自分から「志願」して、第2国民兵役(予備役)に登録させるようにする。
 そして、第2国民兵役に登録した者であれば、「省令」により強制的に兵隊に召集(防衛召集)できる、という手順・方法をとることにしました。
 これで批判されても、「国(軍)が強制したのではなくて、中学生が自分から志願してきたんだ」と言い訳できます。

 しかし、その「志願」は、「事実上の強制」でした。
 陸軍は、各学校に命令して訓練隊(○△中学防衛隊)を作らせて、校長を隊長としました。
 学校には、軍人(配属将校といいます)が配属されて指導します。時間割のほとんどが軍事訓練と軍の作業になりました。
 そして、先生が生徒にこう言うのです。「○△中学防衛隊に参加しない者は、明日から登校しなくてもよい。授業もないのだから」と。
 参加しない生徒や病弱な生徒は登校できなくなりました。彼らは、家族もいっしょに「非国民」「スパイ」呼ばわりされました。
 (なお、当時は軍国主義教育であったので、男子中学生は誰もが、「兵隊になること」にあこがれていました 。防衛隊に参加できないことはカッコ悪い、情けないことでした。※2 しかし、親としては、まだ中学生の我が子を兵隊にしたくはありませんでした。※3)

 この訓練隊(○△中学防衛隊)への参加が、「第2国民兵役の志願」を兼ねていました。
 親の承諾書が必要でしたが、先生たちが印鑑を偽造(ぎぞう)したこともありました

いよいよアメリカ軍上陸してくるぞとなった3月、その訓練隊(○△中防衛隊)を牛島・沖縄軍司令官が命令で、『鉄血勤皇隊』という少年兵部隊にと召集(防衛召集)しました。
 「陸軍二等兵」として大人と一緒に戦場で戦うことになりました。

なお、戦後になって、戦死した兵士の遺族に年金を支給することになりましたが、厚生省(当時)は、『鉄血勤皇隊』の17才未満の少年の防衛召集については、手続きに問題があり、「志願」は「事実上の強制」であったから無効であるとしました(兵士ではなかったのだとしました)。
 このため、いったんは『鉄血勤皇隊』の少年たちは、戦死していても遺族に年金が払われないことになりました(兵士の遺族しかもらえない)。
 しかし、国(陸軍省)が「事実上の強制」をしたのにひどいではないかと批判が高まり、しかたなく「特例として軍人として処理する」こととして、遺族年金が支給されました。

 (したがって、今も、日本政府は正式には、『鉄血勤皇隊』を兵士だったと認めていません。国としては日本に「少年兵部隊」があったことを認めたくないのです。国際的にとても恥ずかしいことだからです。しかも少年兵に自爆攻撃をさせたのですから。)

 他方で(沖縄戦終結すぐの頃の話に戻りますが)米軍は捕らえた捕虜(ほりょ)を船でハワイの収容所へと移送しました。移送される捕虜は「軍人」だけです。
 そのハワイに移送された捕虜の中に、14歳を含む『鉄血勤皇隊』の少年たちが多く含まれていました。つまり、米軍は『鉄血勤皇隊』を「軍人」であると認定していたのです。


 ※1 「省令」とは役所が作る命令です。本来、重要事項は国会が「法律」で決めると憲法に書いてありました。しかし『鉄血勤皇隊』の少年たちは「省令」で兵隊とされました。
 その後、沖縄戦の組織的戦闘が終わる頃の6月23日に国会で「義勇兵役法」が制定されて、法律により、日本全国で14歳以上の少年を兵隊にできることになった。ただし、本土決戦を行わずに日本は降伏したので、本土では少年兵部隊は計画だけで終わった。なお、陸軍中野学校というスパイ学校を卒業した者が全国に配置され、少年兵部隊を結成する準備だけは進んでいた。

 ※2 当時の男子のほとんどが「将来は軍人になりたい」と考えていました。そして、小学生でも全員が「命は、自分のものではない、天皇陛下のものです。お国のために死ぬことが誇りです」と答えた時代でした。
 幼い頃から学校で何度もそう教えられたからです(軍国主義教育)。
 『鉄血勤皇隊』の中学生たちも、(入隊するときに書かされた)親にあてた遺書には「立派にお国の華と散ります。戦死したときは喜んで下さい。」と、皆が書いたのです。

 ただし、あこがれだった兵隊さんになった時、日本軍の本当の姿を「帝国陸軍式 鉄拳制裁」で思い知ることになります。
 さらに、いざ戦場に立ったとき、中学生たちは体の震えが止まらない現実を知ることになりました。あこがれていた日本軍が、あまりにひどい状況にあることを知りました。
 死ぬ時には、誰一人として「天皇陛下万歳」とは言わなかった。大人の兵もみな、「お母さん」と言って死んでいった。

 戦争を指導した昭和天皇は、今の天皇陛下の父君です。しかし、今の天皇陛下は、沖縄のことをいつも心配してくれています。沖縄でしか発行されていない新聞を東京に取り寄せて読まれるそうです。何度も沖縄を訪問されています。

 ※3 家族みなが「非国民」呼ばわりされようとも、承諾書に印を押さず、わが子を入隊させなかった親もいました。『鉄血勤皇隊』にならなくても戦地を逃げ惑うことになるのですが、それでも入隊しなかった子の7割強が生き残ったのに対して、隊員の生存率は5割に過ぎません。兵隊になることは死ぬことを意味しました。

学校ぐるみの中学生動員

沖縄戦が終わった(組織的戦闘が終結した)後の1945年7月に、鉄血勤皇隊は「学徒の模範」であるとの文部省の表彰式が行われた。
 太田耕造・文部大臣が「本分をつくし皇国護持の大任に殉じたことは、全国の教職員及び学徒の重大なる覚悟を促すものといわねばなりませぬ」と。
 それは、いよいよ迫り来る本土決戦で、15歳以上の少年兵を戦地へ送り出す布石であった。

 7月11日、文部省に学徒動員局が新設された。1945年6月23日に制定施行された「義勇兵役法」を執行して、少年たちを徴兵するためである。

 新聞には「「沖縄における師範学徒、沖縄一中生徒達の活躍につづけ。今こそ学徒達の盛り上がる救国の赤心が要求されている」


<ひめゆり学徒隊の引率教官だった教師の後悔>

戦争へひきずられていった罪
 あの時は どうにもならなかったと、
 どうして言えるであろうか。
 戦争への歯車にはめこまれ、
 ひきずられて、
 戦争へと生徒を引率した
 教師の責任である。

 不明にして、さめた眼ももたず、
 戦争へひきずられて行った罪である。

 その根は深くおそろしい。
 私は 今も
 その重い負い目を負いつづけている。 

   仲宗根政善『石に刻む』

軍国主義教育とは、教育とは非常に恐ろしいものです。戦争当時には、小学生の子どもが親がふと漏らした反戦意見を学校の先生に密告し、親が拷問を受けたりするといった悲劇も起きています。
(たまたま先生に話をしてしまったというのではなく、子どもは「密告」することが正義と信じて、家庭で親が話していたことを密告したのです。先生がそういう指導をし、憲兵に連絡もしたのです)

慰霊碑(いれいひ)

『鉄血勤皇隊』の慰霊碑として、那覇市首里(なは市しゅり)にある「一中健児の塔」や、糸満市摩文仁(いとまん市まぶに)の「師範健児の塔」などがあります。

発展学習

どうして『鉄血勤皇隊』が必要だったのかについて調べる。
  (http://matome.naver.jp/odai/2146759366921746301

6月「義勇兵役法」が成立し、全国で少年兵の準備が始まっていたことについて調べる。

世界の少年兵(子ども兵士)について調べる。

女子の看護学徒隊(ひめゆり部隊など)について調べる。

沖縄戦で住民の戦争への参加について調べる。

参考資料

沖縄県民斯ク戦ヘリ

大田実海軍司令官は、自決する直前の訣別(けつべつ)電報に、「沖縄県民斯ク戦ヘリ(かくたたかえり)」と沖縄県民の奮戦、奮闘をたたえる文章を送った。

 担架で負傷兵が運び出されている。沖縄の女学生たちが、砲撃も爆撃もいっさい無関心といった様子で、一途に負傷兵を後送している。この光景を見ているうちに恥ずかしくなってきた。
(北海タイムス「ああ沖縄」 歩兵第三十二連隊 軍曹)

同じように鉄血勤皇隊が、懸命に戦ったのも、

アメリカをはじめ外国によって我が国土を分割されないように。
わが国土が外国軍に占拠されないように。
わが国民が外国軍の凌辱を受けないように。

という思いからであった。

ところが、現在、沖縄だけでなく日本が、外国(アメリカ)の利益のために、「捨て石」、「防波堤」にされようとしている。

沖縄、日本は、中国の太平洋進出を防ぐ第1列島線(アチソンライン)の「防波堤」であると言われる。
日本は、そして、沖縄は「防波堤」であると。

もし、その時が来たら、戦場はどこですか。
住民(国民)は避難してますか。それとも、戦場に取り残されていますか。

「沖縄戦」を学ぶことは大切なことです。

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