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項羽と劉邦 (楚漢戦争)

中国史上、最も壮大でドラマチックな戦いといっても過言ではない項羽と劉邦の覇権争い(楚漢戦争)をスーパーダイジェストしました。

更新日: 2016年09月15日

来栖崇良さん

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史上初めて中国を統一した秦の始皇帝が死去すると、その末子・胡亥が兄・扶蘇を謀殺して秦の皇帝となる。




紀元前209年

秦への反乱「陳勝・呉広の乱」が起こると、各地の秦の圧政に対する不満が次々と表面化し、それまで秦の圧制に耐えていた各地の人民は地元の役人を血祭にあげて陳勝に呼応した。




しかし、陳勝も呉広も秦の将軍・章邯(しょうかん)に敗れる。




陳勝・呉広が死んでも反秦の火は受け継がれ、楚の項梁(項羽の叔父)が新たな反秦の旗手となる。

項梁は、羊飼いに身を落としていた旧楚の懐王(秦の中国統一の流れで権威を失った)の孫を、秦への復讐の象徴として担ぎ出して「懐王」を名乗らせると、反秦軍の名目上のトップにした。



秦の首都・咸陽から大軍を率いて出撃した章邯は次々に反乱を鎮圧し、新たな反秦勢力の旗手である項梁も戦死する。



楚の懐王は宋義と項羽を派遣して、章邯に対抗させた。

総大将の宋義は、圧倒的な大軍である秦軍が勢いに乗っているタイミングはリスクが大きいと判断し、進軍道中で46日間も時間を潰す。



副将の項羽は、すぐさま秦との決戦を望んでいたため、なかなか戦おうとしない宋義に業を煮やして、項羽は宋義の首を刎ね、自身が総大将となって、倍以上の戦力である秦軍20万を撃破する。




項羽は身長が9尺(約207センチ)の大男で、その超人的な怪力から中国史上最強(三国志の呂布よりも評価が高い)の言われている。

一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする

懐王は項羽ら主力軍にそのまま秦の首都・咸陽まで攻め込むように命じ、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

そして「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦の圧政に対する反乱が各地へ広がっていった頃、沛(江蘇省徐州市)の役人であった蕭何と曹参は、地元の人気者である劉邦を担ぎ上げ、反乱に参加することを決める。


劉邦は懐王の勢力下に参加する道中で、後に「寝室から書斎から、千里の彼方の戦に勝利する。」と言われる軍師・張良と出会う。



項羽とは別ルートで咸陽を目指した劉邦は、降伏した土地の役人に対して身分の保障を約束する戦略で、度々無血開城に成功しながら各地を攻略していたので、その進軍は激しい戦闘を繰り返す項羽よりも早かった。

劉邦軍は最初に関中へと入り、秦の首都・咸陽を目の前にする

抵抗する戦力のない秦の王・子嬰は観念し、劉邦の所へ白装束に首に紐をかけた姿で現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏する。
劉邦の部下の多くは子嬰を殺すべきだと主張したが、劉邦は子嬰を許した。

遅れて関中に到着した項羽は門が閉ざされていることに激怒

項羽には、自分が秦の主力軍を次々に打ち滅ぼしてきた自負があり、別働隊として出撃した劉邦が先に関中入りしたからと、我が物顔でいることに怒り心頭となり、劉邦を滅ぼすことを決める。

張良らのはからいによって劉邦は弁明の席を項羽にもうけてもらう。


劉邦が項羽を訪ねに行くと、本営に護衛の兵がついていくことは許されなかった。


項羽側はハナから劉邦を殺す気で開いた宴会だったので、項羽の軍師・范増は度々劉邦を殺すようにうながす。


しかし、劉邦が平身低頭に卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は劉邦を殺す必要性を感じなくなっていった。

項羽は、先に関中入りした劉邦に降伏していた子嬰ら秦王一族や官吏4000人を皆殺しにし、宝物を奪い、華麗な宮殿には火を放ち、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出す。


秦を滅亡させた項羽は、そのまま利便性の高い咸陽を首都にするか迷うが、故郷に錦を飾るために、楚の彭城(現在の江蘇省徐州市)を首都と定めて、自らを「西楚の覇王」と称した。



紀元前206年、項羽はお気に入りの諸侯を各地の王にして、思いのままに領地の分配をおこなう。

項羽の領地の分配は、秦との戦いでの功績は二の次で、関中に一番乗りした劉邦は、逆に警戒心を抱かれ、流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。



楚の懐王は、咸陽を含む関中を先に平定した方に関中を与えると約束していたので、この約束に従えば関中は劉邦に与えられるはずであった。

しかし、項羽は圧倒的な武力を背景に懐王の約束を反故にする。


また、飾りに過ぎないにも関わらず意見を言うようになった懐王を、項羽は邪魔になったので暗殺した。

各地で項羽に対する不満から反乱が続発

項羽は続発する反乱を圧倒的な戦闘力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。

劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった連合軍で、項羽が留守の彭城(現在の江蘇省徐州市)を陥落させる。


彭城の陥落を知った項羽は3万の精鋭部隊を編成して、猛スピードで彭城へと引き返してくると、連合軍56万を木っ端微塵に打ち破り、連合軍は10万人にものぼる死者を出した。

劉邦らは命からがら逃げ込んだケイ陽(河南省鄭州市)で籠城をする

劉邦は軍事の天才である韓信に望みを託し、項羽に寝返った諸国を攻めて軍勢を集めるように命じる。


韓信は、曹参らと共にわずか12000の兵で出撃し、魏(現在の山西省運城市夏県)、代(現在の山西省北部)、と制圧すると、20万の兵を持つ趙(現在の河北省)を攻め、見事な戦術で趙の軍勢を挟み打ちすることに成功して大勝利すると、燕(河北省北部)を降伏させた。


韓信は続いて70余城を有する斉(現在の山東省)に攻め込むと、瞬く間に50余城を落とすが、項羽は龍且・周蘭に20万の軍勢を任せて斉に援軍を送るが、韓信はその20万の軍勢を水攻めで流して、斉も平定する。

ケイ陽を脱出した劉邦は、天然の要塞と名高い広武山(河南省)に移動して籠城の態勢を固める。



道が険しく一気に攻め入ることの出来ない項羽軍は、籠城する劉邦軍と谷を挟んだ向かい側に陣をはり、両軍の膠着状態は数カ月も続いた。

消耗した両軍はいったん和睦してそれぞれの故郷に帰る約束をする。

張良は「疲弊している項羽軍も、戻って回復すればその強さが戻ってしまう。油断している今を置いて勝機はない。」と劉邦に説明する。


劉邦はその進言を採用し、退却する項羽軍の後方を襲うことを決断する。


劉邦は韓信に援軍要請をするが、軍事の天才である韓信にとって戦争が終結することは自らの価値を失うことであるため、韓信は援軍を躊躇する。

しかし、劉邦が戦後の韓信に斉王の地位を約束すると、韓信は30万の軍勢を率いて参戦した。

今度こそ劉邦有利を察した有力諸侯も雪崩をうって劉邦に味方したため、劉邦軍は60万にも膨れ上がっていき、ついに項羽を垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)に追い詰めた。


劉邦が韓信に全軍の指揮を譲ると、韓信は項羽軍を囲い込む事に成功する。



ある晩、城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聴こえてきたため、項羽は「こんなにも多くの故郷の者が敵側についているのか。」と嘆いた。


その後、項羽は、手勢を率いて一度は包囲網を突破するものの、観念して自害する。

劉邦は皇帝に即位し、論功行賞では、戦場での功が多い曹参よりも、兵員と物資の調達をし続けた蕭何を第一とするなど、細やかな評価を下していく。





劉邦は酒宴の席で自らが天下統一を成し得た理由を「わしは張良の様に策をめぐらし千里先から勝利する事は出来ない。わしは蕭何の様に兵をいたわって補給を途絶えさせず安心させる事は出来ない。わしは韓信の様に軍を率いて戦いに勝つ事は出来ない。だが、わしはこの張良、蕭何、韓信という三人の英傑を見事に使いこなす事が出来た。反対に項羽は范増一人すら使いこなす事が出来なかった。これが、わしが天下を勝ち取った理由だ。」と語った。

劉邦が開いた漢王朝は、その後約200年の長きに渡って続く。

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