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新撰組 鬼の副長 土方歳三の生涯

今さら聞けない、ザッとは知っておきたい、そんな方向けに新撰組 副長 土方歳三の生涯をスーパー・ダイジェストでまとめました。

更新日: 2018年01月17日

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この記事は私がまとめました

来栖崇良さん

生まれは武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)

土方家は多摩の豪農であったが、土方は、生まれる前に父を6歳の時に母を失っていた。


そのため、土方は、次兄の喜六とその妻なかによって養育される。


土方は幼い頃に、武士になったらこの竹で矢を作ると言って竹を植えたりするなど、武士になりたいという思いを幼い頃から抱いていた。


人一倍プライドの高い土方は、武士にペコペコするのが面白くなかったのかもしれない。



ヤンチャな少年期の土方はバラガキ(触れると怪我するバラの棘のような不良少年)と呼ばれていた。

土方の姉のぶは、日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁いでおり、彦五郎は近藤勇との親交厚く、自宅に剣道場を持っていた。

土方は、その道場に指導に来ていた近藤と出会い、天然理心流に入門する。


年齢も1歳違いと、歳近い土方と近藤は、この頃から非常に仲が良かった。

1862年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集される。

土方は近藤についていく形で、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人と共に京都へ赴く。

京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派の確執が色濃くなる。


土方は後々、新撰組の栄枯盛衰を良くも悪くも左右する局中法度という隊の決まりを絶対化することに尽力し、この局中法度をもとに芹沢派の新見錦を切腹に追い込み、同じように局中法度を大義名分に芹沢鴨を自らの手で暗殺した。

新撰組は土方の望み通り近藤勇主導の隊になる

近藤が隊外での交渉などで新撰組の権威を高める一方で、土方は新撰組という組織そのものをプロデュースした。

1864年正月15日、14代将軍・徳川家茂が京都に到着

幕末の京都は政局の中心地で様々な政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏して活動していた。


1864年5月下旬頃、山崎丞・島田魁らによって炭薪商を経営する古高俊太郎の存在を突き止められ、武器や長州藩との書簡等が発見される。


古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により自白に成功した。



その内容は、祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて、徳川びいきの中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜(次期将軍)・松平容保(会津藩主)らを暗殺し、孝明天皇を長州へと誘拐するというものであった。

池田屋事件

新撰組は、近藤隊と土方隊に分かれ捜索を開始、22時頃、近藤隊は池田屋で会合中の尊攘派志士を発見、近藤隊突入の知らせを聞いた土方は、現場に急行した後、戦闘に参加させる者と池田屋の周辺を防御する者に分けた。


騒ぎを聞きつけ現場に駆けつけてきた会津藩や桑名藩は味方ではあるが、土方は、まだ立場の弱かった新撰組の手柄を横取りされないように、彼らの現場立ち入りを阻止する。

新撰組は池田屋事件で、朝廷と幕府から破格の恩賞を受け、天下にその名を轟かせる。




そうして最盛期を迎えていく新撰組を守るために、土方は度を越した非情さを貫く。





試衛館以来の盟友である山南敬助をはじめ、河合耆三郎、谷三十郎、武田観柳斎などの幹部も局中法度を破った者は例外なく粛清した。

1867年11月9日、大政奉還。1868年1月3日、王政復古の号令。

将軍・徳川慶喜が朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上(大政奉還)し、薩長による倒幕の口実をなくすと、岩倉具視らは徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定して明治新政府が樹立(王政復古の号令)し、旧幕府勢力に追い込みをかけた。

鳥羽・伏見の戦い

1868年(明治元年)1月27日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。
この「鳥羽・伏見の戦い」で、土方は負傷していた近藤の代わりに新選組の指揮をとった。

江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗れた。


近藤・土方は隊を再編成し、下総国流山(現在の千葉県流山市)の光明院・流山寺に分宿して長岡七郎兵衛宅を本陣とし、越谷に本陣を置いていた新政府軍の背後を襲う計画を立てるが、近藤が新政府軍に投降し、処刑されることになる。


土方は島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流し、北へ北へと転戦し、仙台で榎本武揚らと合流すると、蝦夷地(現在の北海道)に渡る。

旧幕府軍が箱館の五稜郭を占領後、土方は、松前城を陥落させ、江差を占領するなどの活躍をした。


その後、五稜郭を本陣に旧幕府は榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」を成立し、土方は大幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねる。

土方は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦し連戦連勝を重ねる。


しかし、土方軍が死守していた二股口とは別の松前口が突破され、敵に逃げ道を塞がれる危険性が発生。


土方軍はやむなく二股口を退却し、五稜郭へ帰還した。

京都時代から土方になついていた新撰組の島田魁らが守備していた弁天台場が、新政府軍に包囲され孤立してしまう。




土方はわずかな兵を率いて出陣、箱館一本木関門まで来ると、敗走してくる味方に対して「退く者を斬る!」と一喝し、鬼神のごとく戦うが、銃弾が土方の腹部を貫き落馬する。



側近が駆けつけた時にはもう絶命していたという。満34歳没。

その6日後、蝦夷共和国は新政府軍に降伏する。

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