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天使の心を持った殺人鬼 沖田総司の生涯(新撰組 一番組組長)

今さら聞けない、ザッとは知っておきたい、そんな方向けに新撰組 一番組組長 沖田総司の生涯をスーパー・ダイジェストでまとめました。

更新日: 2018年02月18日

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この記事は私がまとめました

来栖崇良さん

江戸の白河藩屋敷(現在の東京都港区西麻布)で生まれる

2人の姉がおり、両親とは3歳前後で死別したといわれている。



9歳頃、近藤や土方のいる天然理心流の試衛館の弟子となり、若くというより幼くして試衛館塾頭を務めていた。

新撰組という実戦部隊で、最も剣の腕がたったと言われる沖田は、日本史上最強の男であったという解釈も出来なくはない。



そんな沖田の強さのルーツは天然理心流にこそあった。

幕末というのは、実戦と剣術の乖離が大きくなって久しいと言われていた時代である。

江戸時代初期に剣術の修練に誕生した竹刀は、刀より圧倒的に軽く、次第にこの軽い竹刀を巧みにコントロールする技術が発達していく。

幕末の頃はすでに、軽い竹刀を操作しやすいように、現在の剣道と同じように、両手の間隔を開けて竹刀を握ることが一般化する。


天然理心流では異様に太く重い木刀で実戦を想定した修練がされていた。

天然理心流では、野球のバットを握るように両手の間隔を開けず、竹刀よりもはるかに重い刀を力強く扱えるような修練がなされていた可能性があった。
現存する土方歳三の和泉守兼定が、バットのように握っていた痕跡が残っている。

実際に、江戸時代初期以前、竹刀が作られるようになる前は、刀をバットのように握るのが一般的であった。


天然理心流は、幕末には廃れていた本来の日本刀の握りで、日頃から実戦向けの訓練をしていた可能性があるのである。

永倉新八は後年「練習では、土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた。」という証言を残している。






しかし、いくら強くても、親はなく男兄弟のいない、まだまだ幼さの残る沖田にとって、試衛館で共に汗を流す近藤や土方は本当の兄以上の存在であった。

1862年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集される。

沖田は近藤や土方についていく形で、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人で京都へ赴く。

京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していく。


沖田は新撰組が近藤主導の隊に変わるための数々の内部抗争において暗殺実行者として働く。


その決定打となった芹沢鴨の暗殺にも実行者として加わった。

新撰組の名を天下に轟かせた池田屋事件の際には、近藤隊4名の一人として20名以上の敵に突入する。

しかし、戦闘中に持病が発症し、吐血しながら倒れ込み、戦線離脱する。

この頃から沖田は、兄貴分と慕う近藤や土方との時間がそう長くはないことを感じ始めていたかもしれない。

山南敬助の脱走

沖田と仲の良かった新撰組 総長・山南敬助が、役割のかぶる伊東甲子太郎の加入により、隊内で孤独感をつのらせ脱走する。

近藤と土方は、沖田にたった一人で追っ手として向かうことを命じる。



※土方と近藤は、山南を見逃すために、沖田一人に追いかけさせたという説が存在する。

沖田が近江草津で山南を発見すると、山南は抵抗することなく新撰組の屯所に戻った。

沖田は、凄腕の新撰組一番隊組長としての顔とは裏腹に、いつも冗談を言っている陽気な人物で、暇な時は屯所界隈の子ども達と遊んでいる事が多かった。


しかし、強く陽気な沖田でも当時は不治の病とされていた労咳に命を削られていく。



「鳥羽・伏見の戦い」には参加せず、江戸に戻ってからは幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋でかくまわれて療養生活を送る。

「鳥羽・伏見の戦い」には参加せず、江戸に戻ってからは幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋でかくまわれて療養生活を送る。


近藤が板橋刑場で処刑されてからも、そのことを知らない沖田は「近藤さんはどうされたのでしょうね。お便りは来ませんか?」と寂しがっていたという。



近藤の死から2カ月後、持病の労咳(結核)でその生涯を終えた。


没時年齢については生年が明確でないため24~25歳という説が有力視されている。

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