1. まとめトップ

【ガチで拳銃の弾をよける】#合気道 #植芝盛平 #塩田剛三

合気道とスピリチュアル一、己れの心を宇宙万有の活動と調和させる鍛錬。二、己れの肉体そのものを宇宙万有の活動と調和させる鍛錬。三、心と肉体とを一つに結ぶ気を、宇宙万有の活動と調和させる鍛錬。この三つを道場、また平常時々刻々に於いて実行し得た者のみが合気道の士なのである

更新日: 2019年08月26日

9 お気に入り 22581 view
お気に入り追加

それで飛びこんでいって、あとから弾が来たときにはもう半分くらい中に入っているのです。

先生は、金の光が来てから弾が届くまですごい時間があるというんですが、見ている方にとっては、まさに一瞬にしかすぎません。

先生が間合いをつめるのは、まったく見えないわけです。

この話には後日談があります。

塩田さんの知り合いで、山梨に佐藤貞次郎という猟師がいました。

この人が鉄砲撃ちの名人なのです。

たとえば、山鳥を撃つ場合、猟師が山鳥が沢から降りてくるのを狙い撃ちします。

このときの山鳥のスピードは時速二百キロくらいになるんだそうです。

山鳥というのは、頭を撃たれると、そのままストンと落ちるのですが、腹を撃たれると、滑空していって遠くに落ちてしまう。

だから、猟師は皆、頭を狙ってその場に落としたいのですが、なかなかうまくいかない。

ところが、この佐藤さんは百発百中で頭を射抜くのです。
まさに鉄砲撃ちの名人中の名人です。

あるとき、私はこの佐藤さんに、植芝先生が鉄砲をよけた話をしました。

「それでもワシの鉄砲はよけられん」と、佐藤さんは自信満々です。 

「人間の頭なんてこんなにデカい。ワシは山鳥の頭を撃つんじゃ。人間に当たらないわけがない」

そう言って、佐藤さんは先生と勝負するために山から下りてきました。

塩田さんは佐藤さんを植芝道場に連れていって、勝負をしたい由を先生に伝えました。この挑戦を先生は受けたのです。

道場の奥に先生が正座して座り、離れたところから佐藤さんが猟銃を構えました。

塩田さんは固唾を飲んで見守っていました。

佐藤さんの指が今まさに引き金を引こうとしたときです。

「まて、あんたの鉄砲は当たる」と、先生が制しました。
 
「あんたはワシを撃ってやろうなどという気持ちがこれっぽっちもない。最初から当たるつもりで撃とうとしている。

そんな人の鉄砲はよけられない。たいしたものだ」

先生はそう言って、佐藤さんに頭を下げました。
佐藤さんはほんとに喜んで、また山に戻っていきました。

塩田さんは、すっかり感心してしまいました。
 
佐藤さんの鉄砲も名人なら、それを察知して勝負を退いた植芝先生も名人です。
 
まさに、名人は名人を知るというところでしょうか。

これは、塩田さんの本からの抜粋ですが、とても凄い!こんな世界が私たちの知らない世界で現実に

存在する事が凄い。 人間の潜在的能力に驚かされました。 まさに仙人のような、お話ですよ。

力士も野球選手も

演武会であまりの技の流麗さに「ヤラセではないのか」と会場からもざわめきが起こり、それを察した植芝氏はその場で観覧していた元大関の力士・天竜を呼び、「こんなじじいにここまでできるわけないと疑っておいでなら投げて御覧なさい」と腕を差し出した。
天竜は「このじじい何を言っていやがる」と思い切り投げてやるつもりで腕をつかんだ瞬間、鉄棒をつかんだような感覚が起こり、彼も相撲界で長くやってきて色々な経験をしているから「コレはいかん」とすぐに感づいたらしい。瞬間、あっという間に投げ飛ばされていたそうです。

(巨人軍コーチ)荒川氏が現役選手時代、植芝氏本人に合気会本部で指導を受けたときに、「ボールのつもりで思い切り打ちなさい」と自分の持っている木刀を叩かせたところ、自分が跳ね飛ばされたそうです。

病気の時ですら

時は昭和14年、当時は竹下勇海軍大将が植芝道場の会長だった関係で、皇族方の前で演武をしてほしいという依頼が植芝先生のもとにやってきました。
しかし、この時の植芝先生は既にながらく肝臓を悪くされていて、着物を着るにも出かけるにも、弟子の肩につかまりながらでないと動けない状態だったといいます。
(中略)
それで、演武前半の受けを担当することになっていた湯川氏は、本人自身たいへんな力持ちだったこともあり、いささか力を加減して植芝先生に掛かっていったのだそうです。
すると、あっという間に湯川氏の身体は吹き飛ばされてしまい、畳にうずくまって動かなくなってしまいました。塩田氏が思わず駆け寄って見てみると、腕が折れてしまっていた

晩年

私が植芝翁と共にした時彼は80歳代で、小さな体でしたが非常に強い人でした。彼の終焉が近くなっていた時、弟子たちが担架で彼を道場に運んで来ました。
彼は非常に弱ってひ弱に見えました。しかし彼は突然気を集めて立ち上がり、非常に強い男を縫いぐるみのように投げ飛ばしたのです。その後彼は担架に戻り病人に戻りました。

植芝盛平先生が、お亡くなりになる三日前の話です。おもむろに便所に行くと言って立ち上がる先生を、側についていた四人の弟子が慌てて止めたことがあったそうです。それまで床に伏していたわけですから、心配だったからですが、植芝先生は、その四人を一瞬で投げ飛ばしてしまったという逸話があります。

南方熊楠の「神社合祀反対運動」に共鳴

合気道の創始者植芝盛平翁は田辺市上の山に生まれ、幼い頃から武道にはげみ、19歳で修行の旅に出て各流の武術遍歴を重ねつつ独自の武術を習得しました。
また、青年のころ、田辺在住の南方熊楠の「神社合祀反対運動」に共鳴をしたり、北海道の開拓においては、紀州団体の長として入植するなど多方面で活躍をしております。

南方熊楠の「神社合祀反対運動」

神社合祀(じんじゃごうし)とは、神社の合併政策のことである。神社整理ともいう。複数の神社の祭神を一つの神社に合祀(いわゆる稲八金天神社)させるか、もしくは一つの神社の摂末社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって、神社の数を減らすというもの。主に明治時代末期に行われたものをさす。

南方熊楠の生涯の中で神社合祀反対のために費やしたエネルギーは並大抵なものではなかった。彼はこのために、研究のための貴重な時間を割いたのみならず、乏しい生計資金の中から七千円を費やし、また官吏を威圧したかどで投獄されもした。彼をそれまでに駆り立てた理由は、神社合祀によって多くの神社が無くなる結果、その神社に付属していた森林が伐採されつくすことへの危機感だった。森林伐採によって、生態系のバランスがくずれ、植物の生息に悪い影響が出るのみならず、さまざまな問題を生じさせる。熊楠はそれを座視できなかったのである。

訓令は神社合祀と神社に対する公費援助の基本を定めたものであったが、その実施は各府県にゆだねられた。そこで、神社合祀に熱心なところとそうでないところでは、合祀の規模が異なる事態が起きたが、熊楠の住んでいた和歌山県や隣の三重県はとりわけ合祀に熱心だった。この両県には熊野の森を始め、日本有数の森林地帯が展開しており、しかもそこは、亜熱帯と温帯とが交叉する地理的条件から、特徴のある生物が多く生息していた。これが神社合祀をきっかけにして森林が大規模に伐採されれば、生物が甚大な影響を蒙るだけでなく、住民の生活環境にも重大な影響が及ぶ。そう考えた熊楠はついに神社合祀反対の運動に立ち上がるわけなのである。

1 2 3 4