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【ヒストリア】写真で見る関ケ原の合戦の戦国武将の鎧兜~徳川家康軍~

男のロマン戦国時代。武士の戦い方もさることながら、鎧甲冑のかっこよさにもひきこまれます。今回は天下分け目の大戦「関ケ原の戦い」より、東軍・徳川家康軍の鎧兜をまとめました。西軍・石田三成軍も別でまとめます。

更新日: 2018年08月10日

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orihoanさん

▼先日、関ケ原に参加した大名の兜アイコンがのったTシャツが販売されました。かっこいい~

株式会社戦国・限定WEBショップ
関ケ原Tシャツ(5000円)
http://peatix.com/event/193557

関ヶ原の戦いで争った二派は、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍である。東軍・西軍の諸将の多くは豊臣恩顧の武将であり、この戦いの性格について家康は豊臣家の家臣同士の成敗合戦(豊臣家に仇為す者を成敗する)という建前をとり、また、豊臣家も表向きは静観の立場を取った。しかし、この戦いは実質的に徳川家康の覇権を決定づけることとなった。

▼アイコンもさることながら、武将たちの鎧甲冑が意匠に富んでかっこいいので写真あつめました。

●東軍
 徳川家康  30,000人 総大将
 黒田長政   5,400人 先手
 細川忠興   5,000人 先手
 加藤嘉明   3,000人 先手
 筒井定次   2,850人 先手
 田中吉政   3,000人 先手
 福島正則   6,000人 先手
 古田重勝   1,200人
 織田有楽   450人
 金森長近   1,140人
 生駒一正   1,830人
 井伊直政   3,600人
 松平忠吉   3,000人
 寺沢広高   2,400人
 藤堂高虎   2,490人
 京極高知   3,000人
 本多忠勝    500人
 有馬豊氏    900人 南宮山への備え
 山内一豊   2,050人 南宮山への備え
 浅野幸長   6,510人 南宮山への備え
 池田輝政   4,560人 南宮山への備え
 合計    88,880人

9月15日午前8時頃、美濃国・関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた。開戦当初は高所を取った三成ら西軍が有利であったが、正午頃かねてより懐柔策をとっていた西軍の小早川秀秋の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転する。さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって大谷隊は壊滅、西軍は総崩れとなった。戦いの終盤では、敵中突破の退却戦に挑んだ島津義弘の軍が、家康の本陣目前にまで突撃してくるという非常に危険な局面もあったが、東軍の完勝に終わった(関ヶ原の戦い)。
9月18日、三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた三成を捕縛。10月1日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に六条河原で処刑した。

その後大坂に入った家康は、西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に加増分配する傍ら自らの領地も250万石から400万石に加増。秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず領地もそのままだったが、論功行賞により各大名家の領地に含めていた太閤蔵入地(豊臣氏の直轄地)は諸将に分配された。その結果、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヶ国65万石の一大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。

人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くが如し。いそぐべからず / by 徳川家康

『秀忠、鼓は上達したか。冥途の土産にそちの下手糞な鼓を聴いておきたい。鼓を、持て』 (徳川家康=津川雅彦【葵徳川三代】)

人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くが如し。いそぐべからず / 徳川家康

黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。
戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前国名島に52万3千余石の大封を受け、福岡藩を立藩し、初代藩主となった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。

上を敬い、下をあわれむに、慎んで怠ることなかれ。【黒田長政】

和睦をはかるという手立てもございます。私は秀吉の軍師、黒田官兵衛とは浅からぬ縁。派手に調略のてを伸ばしてくるゆえ、少し脅しをかけたところですが、会って話す手はずは整えております。 ( 26話 長政初陣 )

【黒田官兵衛・列伝】 天下取りの野心がバレないように、 息子を徳川家康側に送った。 しかし天下取りに失敗。 原因は中途半端に出来がいい息子・黒田長政…w

細川 忠興(ほそかわ ただおき)/長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。
足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。
足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。

正則は石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、慶長4年(1599年)の前田利家の死後、朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意したが、その経緯から家康の昵懇大名の一人となる。

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