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【ヒストリア】写真で見る関ケ原の合戦の戦国武将の鎧兜~石田三成軍~

男のロマン戦国時代。武士の戦い方もさることながら、鎧甲冑のかっこよさにもひきこまれます。今回は天下分け目の大戦「関ケ原の戦い」より、西軍・石田光成軍の鎧兜をまとめました。東軍・徳川家康軍もリンクありますよ。

更新日: 2018年01月14日

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orihoanさん

▼先日、関ケ原に参加した大名の兜アイコンがのったTシャツが販売されました。西軍もシブイ!

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関ケ原Tシャツ(5000円)
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▼勝者の徳川家康軍はこちら。

▼でも敗者が好きなので、今回は西軍特集です。

●西軍
 石田三成   4,000人
 島左近    1,000人 三成隊の前衛
 蒲生郷舎   1,000人 三成隊の前衛
 秀頼麾下  2,000人 黄母衣衆の部隊
 島津義弘   750人 
 島津豊久    750人 義弘にほぼ同行
 小西行長   4,000人
 宇喜多秀家 17,000人
 戸田重政
 平塚為広    900人 戸田と2人で900人
 大谷吉継    600人
 大谷吉勝
 木下頼継   3,500人 大谷吉勝と2人で3500人
 毛利秀元  15,000人 南宮山周辺部隊
 吉川広家   3,000人 南宮山周辺部隊
 安国寺恵瓊  1,800人 南宮山周辺部隊
 長束正家   1,500人 南宮山周辺部隊
 長宗我部盛親 6,600人 南宮山周辺部隊
 赤座直保   600人 東軍に寝返り
 小川祐忠   2,000人 東軍に寝返り
 朽木元綱   600人 東軍に寝返り
 脇坂安治   1,000人 東軍に寝返り
 小早川秀秋 15,600人 東軍に寝返り
 合計    83,200人

9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6,900人であったが、黒田長政・加藤嘉明・細川忠興・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に幾度と無く攻め立てられたが、高所という地の利と島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。

大徳寺三玄院前の石田三成墓所石碑
その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継を初めとする石田一族の多くは討死した。9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。

10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園・沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。

島左近    1,000人 三成隊の前衛

島 清興(しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。筒井氏、石田三成の家臣。通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。本項目でも特に断りが無い限り「左近」と記す。実名は俗に勝猛(かつたけ)などともいうが、文書から確かなのは清興である。
三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕え、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材だった(『古今武家盛衰記』)」

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って指揮し、ついに敗戦すると家臣湯浅隆貞の介錯で切腹して果てた

小西行長   4,000人

小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。
当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。関ヶ原の戦いでは西軍の将として奮戦したが、敗北して捕縛された。自殺を禁じられたキリシタンであったので、切腹を拒否して斬首された。

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